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呼ばれるんじゃ

どうも村田です

江戸時代までの日本

では、国民の7割から

8割以上が

家族経営の農民で

あったのだ。

明治時代に入っても

その傾向は変わらず、

都道府県の人口で

もっとも多かったのは

意外にも石川県であった

のだ。

明治時代の石川県は

現在の範囲より広く、

富山県の一部も含まれて

いたのだ。

都道府県のなかで

もっとも人口が多かった

のは東京ではなく石川県

であったのだ。

これは石川県が加賀

百万石の米どころであり、

農民が多かったため

なのだ。

国が農業中心の時代には

農地に人口が集中して

いたが、その後、

農民の疲弊とともに

人口は減少し、都市に

人口と富が集まる

ようになったのだ。

これが橘氏が生きた

明治から昭和の時代の

変遷であるのだ。

確かに現代では都心部に

人が多いのは当然であるが、

橘孝三郎たちは

自らの住む地域から都市へ

人口が流出する現象を肌で

実感していたのであろう。

日本の農家は規模が小さく、

家族で農業を営み、

その家族が集まって村を

形成し、結束して生活

していたのだ。

だが、都市への人口流出

により、村の結束が徐々に

薄れていったことを、

橘氏は1932年の時点で

嘆いていたのだ。

そういった結束が薄れ

きった時代にわれわれ

戦後の人間は生まれ、

その状況が当たり前と

なったが、かつては

そうでない時代が存在

したのだ。

現代では家族や親戚の

関わりが煩わしいと

感じる個人主義的な

人が多いが、

橘氏は東京で自由主義や

個人主義を経験しつつも、

伝統的な文明が破壊された

あとに

新たなより良い文明が

生まれるとは信じられず、

あくまで修正可能な

ぎりぎりのところだと

考えていたのだ。

橘氏が理想としたのは、

家族を基盤とする地域の

結びつきによる同胞の

連合体であるのだ。

隣の村にも同じ価値観を

共有する同胞が存在し、

地域同士が助け合う関係

だったのだ。

中央政府が権力を集め、

多くの税金を徴収する

現状を彼は嫌悪したが、

幕藩体制を賛美した

わけではないのだ。

むしろ、地方自治を強化し、

地域の独立性を高めながら

問題を地域で解決し、

国防など国家レベルの

課題は国が担うべきと

考えたのだ。

基本は中央集権ではなく

地方分権であり、農民が

主役として政治に参加し、

地方議会にも農民が多く

議員として名を連ねる

ことで、

農民の利益が守られる

べきだとしたのだ。

また、同胞意識のもと、

かつて多くの人びとが

農村の小規模な家族農業

に従事し助け合っていた

経験を、少なくとも親の

世代までは共有している

と見なしていたのだ。

以上のような背景から、

同胞意識が次第に

失われていった

ことへの嘆きともいえる

ような、序文の言葉に

結実しているのだ。

そして、その喪失を

取り戻すための革命を

目指すのがこの本の

主題であるのだ。

つぎに、海軍の

霞ヶ浦航空基地隊での

講演の言葉を取り上げ

ているのだ

朗読

頭にうららかな太陽を戴き、

足大地を離れざる限り

人の世は永遠であります。

人間同士同胞として

相抱き合ってる限り

人の世は平和です。

人各々その額に汗の

にじんでおる限り、

幸福です。

誰か人としてこの永遠に

平和な幸福を希わない

者がありましょうか。

しからば土の勤労生活

こそ人生最初の

よりどころでなくて

何でしょうか。

かような議論は決して

空論ではございません。

事実

「土ヲ亡ボス一切ハマタ亡ブ」。

(『日本を救う農本主義-

「日本愛国革新本義」

「第2篇第3章

タチバナ主義的説明」より抜粋)

これが橘氏の革新的な

考え方であるのだ。

彼が述べるのは、農業や

土壌の重要性であり、

自分たちが食べるものは

自分たちで作り、皆で

食料を支え合うという

基本的な理念であるのだ。

これは現代の食料自給の

問題にも通じるものである

のだ。

橘氏は農業を国の基盤と

考え、単に農業の重要性

を説くだけでなく、

自らも農場を経営しながら、

農業を通じた国のあり方を

深く追求しているのだ。

これは「農本主義」

と呼ばれるのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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