どうも村田です
特に卑弥弓呼
(ひみここ)の
重臣であるのは
菊池彦に相当する
のではないかと思うし、
今でも少し変わった
菊池城というのが、
熊本県北部の広大な
敷地に残っているのだ。
熊本といっても
7つぐらいに分かれて
いて、
戦国時代でも菊池家も
残っていたし、竹崎家
とか江口家とか、
それから那須氏とか、
結構今でも続いている
のではないかと思うが、
勝負の国なのだ。
だから、
高天原(たかまがはら)
の政権に属していなかった
ということで派遣された
のではないかと思うのだ。
しかも、天孫直系の孫を
派遣した、それで狗奴国
(くぬこく)征討に
向かわせたのではないか
と思うのだ。
だから、天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
の第2子である
天之菩卑能命
(あまのほのひのみこと)
は、出雲征討を終わらせて、
今度は孫の瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)には
狗奴国(くぬこく)征討に
向かわせた、これが大筋の
話ではないかと思うのだ。
当時、もうすでに山陽道、
投馬国(つまこく)などは、
高天原(たかまがはら)
とはいい関係にあって、
しかし北九州の南にある
女王国に属さないという
のが『魏志倭人伝』に
書いてあるくらいだから、
当然のことながら、
高天原(たかまがはら)
政権、
大和朝廷のもととしては、
そこを滅ぼさなくては
全国統一にならないわけなのだ。
ところが、そこから
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
は日向三代になるのだが、
どこで暮らして、
どこで亡くなって、
業績とか生きざま
というのは
『日本書紀』にも
『古事記』にも一切記述が
なくて、
海彦と山彦の話に
なってしまうのだ。
それもおかしな話で、
高天原(たかまがはら)
というか、
大和朝廷のもとの政権
として、記録が途絶えて
しまったということでは
ないかと思うのだ。
というのは、具体的には
狗奴国(くぬこく)に
戦いを挑んだものの、
狗奴国(くぬこく)という
のは兵力にも優れて、
軍備もあったのだ。
だから、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
の軍勢は、
狗奴国(くぬこく)と
戦って敗れてしまった
のではないかと思うのだ。
それで薩摩の国の方に
逃げ延びたということ
なのだ。
そこで隼人の人たちに
迎えられて三代が生き
延びたという、
それが真相に一番近い
のではないかと思うのだ。
今も仙台市の新田神社
の横に、瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)の
可愛山陵(えのみささぎ)
というのがあり、仙台市で
亡くなって、
可愛山陵(えのみささぎ)
に葬られたというのは
出ているのだが、
それ以降のことについては、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
が何をされたのか
というのが全く残されて
いないのだ。
その後すぐ、薩摩の国の
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
の皇太子も、
そのまた次の太子も
隼人の国に行ってしまう
わけだから、
隼人の国では何をされた
のかというのが、
『日本書紀』にも
『古事記』にも全く
出ていないのだ。
ただ名前が出ていて、
海彦山彦になって
しまうのだ。
そういう時に注目
すべきは、海彦なのだ。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
の次の天皇になる、日向の
2代目なのだ。
『神代記』の皇統譜が
出てくると思うが、
日向三代の2代目だから、
海彦と山彦の話で、
海彦の方は竜宮城に
行って楽しく過ごした
ことになっているのだ。
その時に、
豊玉姫(とよたまひめ)
という皇后に値する方
だと思うが、
夫である尊が伏せている
というか、毎日嘆いて
おられるということで、
「どうされたのか?」
という話をするわけなのだ。
「西の端にあって、
やっぱり故郷が恋しい」
というような、そういう
話を2人で交わすことが
少し出てくるのだ。
ということは、西の国
というのはちょうど
薩摩に当たるのでは
ないかなということなのだ。
それで、3代目もほとんど
業績が伝わらないまま、
今度は神武天皇に移る
わけだが、神武天皇
は日向の国だから、
今の宮崎とか都城とか、
あの辺りを治めていた
のではないかと思うのだ。
連れていた重臣が
「東の方にいい国がある」
ということで、
どうも同じ天孫族に
属すると思うのだけれど、
「ちょうど河内と大和の
境ぐらいに天下りをした
人がいる。
それを平らげなくちゃ
いけない。東征を
急がなくちゃいけない」
という話になって、
神武天皇が東征の旅に
出られるわけなのだ。
日向三代の治世に
ついてはほとんど
記録されていないのだ。
ただ、隼人の人たちに
かくまわれているというか、
支えられて三代は
過ごしたのではないか
というふうに思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる