どうも村田です
戦後、台湾軍の軍事顧問団
として軍の強化に寄与した
白団【パイダン】について
触れたいのだ。
事の起こりは、一九四五年一月、
陸軍広東憲兵隊が中国国民党の
大物軍人を捕らえ処刑するという
情報が入ったことによるのだ。
この情報を耳にした沙面【さめん】
機関の荒武国光大尉(中野出身者、3丙)
は、憲兵隊本部を訪ねて真相を探った
のだ。
調査の結果、この軍人は蒋介石
直属の軍事調査統計局に所属する
情報機関長・
姚敏生【ヤオ・ミンション】少将
であることが判明したのだ。
憲兵隊が
「銃殺刑がいいか、打首がいいか」
と姚少将に尋ねると
「どちらでもいいが、処刑の前に
同じ国のために倒れた七十二烈士
の墓を参りたい」と答えたという
のだ。
七十二烈士とは、孫文が
中国革命を起こしたときに
亡くなった七十二名のことで、
革命の烈士として崇められていた
のだ。
その話を聞いた荒武は、立派な
軍人だと感心し、殺すには惜しく、
沙面機関で引き取りたいと考えた
のだ。
第二三軍参謀長で沙面機関長
でもある富田直亮【なおすけ】
少将(陸士三 二期)に、姚少将を
引き取って重慶に送還する工作案
を具申したのだ。
富田少将は即座に同意し、
姚少将の引き取り準備を進めた
のだ。
荒武は姚少将の七十二烈士の墓参り
に同行し、そのままホテルの特別室
に連れていったのだ。
見張りの者はいたが、ホテル内で
自由に動き回ってもよいと言われた
姚少将は、驚いた様 子だったという
のだ。
てっきり処刑されるものとばかり
思っていたからであるのだ。
姚少将をホテルで待機させている間、
荒武は今後の工作について入念に
確認し、数日後に姚少将を訪れて
次のように述べたのだ。
「貴官は日中両国が争っているのを
どう思っているか。アジアを救うには、
アジアの諸民族が一体となり、相互
扶助の団結を行ってこそと思う。
互いに足らざるを分かち合い、
欠けるところを補い合ってこそ、
民族は一つの傘の下で繁栄する
ものと思う。
本来、日中両国は文化的にも人種的
にも兄弟であるべきで、戦うべきでは
ないと信じるが、将軍の意見はどう
であろうか」と。
そのうえで、荒武は姚少将に、
「重慶に戻って第二三軍司令官
田中久一中将から蒋介石総統閣下宛
の親書を届けてほしい」と頼んだのだ。
姚少将は、命を賭けて届けること
を約束したのだ。
その後、田中軍司令官と富田参謀長は
姚少将と面会し、日本軍側の真意を
直接伝えたのだ。
姚少将は、中野学校出身の
水村三喜軍曹と共に重慶に向けて
出発。
途中で姚少将の婦人を探し出して
合流し、敵地の重慶に送還したのだ。
残念ながら、姚少将に託した停戦
工作は実を結ばなかったのだ。
当時の中国国民党内は親米派の
勢力が強かったのだろう。
戦後、姚敏生は台湾で保安司令部
情報処長になり、一九四八年八月に
密使を派遣して荒武を台湾に招待
したのだ。
荒武は香港から台北に密航し、
姚敏生と再会、命の恩人として
手厚い歓迎を受けたのだ。
この荒武の台湾訪問を契機に、
一九四九年末から一九六四年
までに八三名の旧日本軍将校が
台湾に渡り、
軍事顧問団「白団」として
台湾軍の建設と強化に寄与した
のだ。
白団の団長は、
白鴻亮【パイ・コウリョウ】という
中国名で台湾に渡った第二三軍参謀長
だった富田直亮少将だったのだ。
そして荒武国光大尉は、林光という
中国名で団長秘書を務めたのだ。
白団が結成される前にも、旧日本陸軍
の根本博中将が国共内戦に敗れ台湾に
逃れた蒋介石を救援するため単独で
台湾に密航し、
「軍師」として、
古寧頭(金門島の西北に隣接する島)に
上陸侵攻して来た毛沢東の
中国人民解放軍約二万人を殲滅する
偉業を達成し、中国に対する
「抑止力」の礎を築くことに寄与した
のだ。
これまで中野学校出身者たちの戦中・
戦後の活躍を紹介したが、同校は
一九四〇年八月 に正式に開設されて
から五年間しか存在せず、
その前身の後方勤務要員養成所を
含めても僅か七年九ヶ月しか存続
しなかったのだ。
短期間の存在ではあったが、その間に
生み出した諜報戦士たちが歴史に
残した足跡は実に「巨大」であった
のだ。
米中の覇権争いの中で日本の
情報機能強化が求められる今日、
陸軍中野学校教育と卒業 生の生き様は、
日本の情報機能強化を図る上で欠く
べからざる「道標」だと確信するのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる