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紀元じゃ

どうも村田です

明治38年1月に

旅順が陥落して、同年

3月に奉天大会戦が

行われるのだ

この時の編制は第1軍が

近衛、第2、第12の3個師団、

第2軍が第3、第4、第6、

第8の4個師団、

第3軍が第1、第7、第9の

3個師団、

第4軍が第5、第10の2個師団

の10 個師団で戦ったのだ

第11師団は、この時すでに

帰国しているのだ

なぜ帰国したかというと、

北方、例えば樺太方面など

からロシア軍が入ってきた

時に、全く国内には軍隊が

いなくなってしまうから、

その予備として国内に

1個師団を帰したわけなのだ

日露戦争後の陸軍は先ほど

述べたように、明治38年、

仙台に第13師団、宇都宮に

第14師団、

豊橋に第15師団、京都に第16師団、

岡山に第17師団、久留米に第18師団

の6個師団が増設され、

大正初年には朝鮮半島に第19師団と、

第20師団を置いて、21個師団体制と

したけれど、財政上の問題もあって、

21個師団を抱え続けることは

難しい情勢になったのだ

そこで大正時代には2度に

わたって軍縮があったのだ

最初の軍縮は陸軍大臣山梨半造

によって大正11年と12年に

行なわれたもので、

人員の整理と近代化を

目指したものなのだ

これは第一次世界大戦の

実相を見て、近代化を

図らなければならない

とする考えから出たもの

だが、徹底を欠いたのだ。

このため、大正14年に

陸軍大臣宇垣一成による

宇垣軍縮が行なわれたのだ。

大正12年の関東大震災からの

復興を考えて、大軍縮をして

復興に予算を捻出することを

念頭に置いたものなのだ

また、ロシア革命が起こった

ことで、ロシアの脅威が薄れ、

新生のソ連は新たな軍隊を創設

するのに時間がかかるだろうと

考えて、

軍縮が可能になったと

判断したのだ

この結果、高田の第13師団、

豊橋の第15師団、岡山の

第17師団、久留米の第18師団

の4師団が削減されたのだ。

さらに16の連隊副司令部も

閉鎖となり、3万4,000人の

将校が退役となったのだ

要するに現役を退いて、

軍隊からいなくなった

ということなのだ

大正時代は、ご承知の通り

大正デモクラシーの名前が

ある通り、軍には厳しい

時代で、日露戦争終了時に

21個師団体制を取ったが、

17個師団体制、68個歩兵連隊

体制で昭和を迎えるのだ

昭和12年の支那事変まで

この体制が続くのだ

大東亜戦争で歩兵が使った

三八式歩兵銃というのが

あるが、これは明治38年に

型式認定されたものなのだ

それをもって

「陸軍は兵器の近代化を怠った」

と言う声を聞くのだ

しかしそれは間違いで

確かに明治38年、1905年に

型式認定をされた歩兵銃を

昭和20年の終戦の時まで

多くの兵隊さんが持っていた

わけで、

「40年も前に制定された銃を

持っていたということは

近代的ではない、合理的ではない」

と考えられても仕方がないの

だが、

しかしそうではなく、実は

第一次世界大戦の時に陸軍も

海軍も近代化の必要を強く

考えるのだ

陸軍からも海軍からも

観戦武官というのが実際に

ヨーロッパの戦場に行って、

第一次世界大戦で戦っている

イギリス軍、フランス軍、

アメリカ軍の側に立って、

観戦をするのだ

実際に戦争をするわけでは

ないけれど、観戦をするわけ

なのだ

そして、実際の戦争の様子を

見て、第一次世界大戦では

初めて戦車、航空機、毒ガス

も登場するのだ

そういう状況を見て、

機関銃も登場し

機関銃はその前からあったが、

より新しくなった機関銃が

登場するのだ

そういうものを見て、今の

ままの軍隊では万が一

よその国と戦争になった場合

にとても戦えないということを

陸軍も海軍も痛感するのだ

そこで山梨軍縮、宇垣軍縮を

して、その残った予算で、

余った予算というか、余らせた

予算でもって近代化を図ろう

としたのだ

ところが、関東大震災が

起こったのだ

残念ながら関東大震災が

起こったために、これらの

資金はほとんどが関東大震災

の復興資金に充てられたのだ。

従って、陸軍も海軍も考えて

いた、予想していた近代化、

合理化ができないまま、

ずるずると日露戦争の時に

使っていた武器を使わざる

を得ないという状況になって

しまったのだ

ここで、武器の型式認定の

話について説明したいと

思うのだ

今「三八式歩兵銃」という

言い方をしたけれど、明治38年

だから、「三八」と書いて

「サンパチ」と読むのだ

これは

「明治38年に型式認定された銃」

という意味だが、明治38年は

日露戦争の終わりの年なのだ

陸軍はそれまでは三十年式

歩兵銃を使用していたのだ。

この時は「三十年式」と

言っていたのだ。

しかし、三十八年式歩兵銃

では長いので、三八式歩兵銃、

「サンパチ」と読むように

なり、しかも、年を省いたのだ

この後、大正時代になると

今度は年を付けて呼ぶように

なったのだ

それは明治と混同しないため

なのだ

明治の場合には年と式を

省いたのだが、大正の場合

には年と式をつけて

「十四年式」というような

言い方をしたのだ。

この結果、「年式」と

いうふうに言えば大正時代

の型式認定であるし

「三八式」というふうに

年と式を取っていれば、それが

明治のものだと分かるように

したのだ

昭和以降になると、明治や

大正と混同しないように、

紀元、要するに皇紀を

使ったのだ

皇紀というのは承知だと

思うが、神武天皇が即位

した年を元年とした日本

だけの紀元なのだ

ちょうど昭和15年が皇紀2600年

ということになったから、

一番下の下二桁の数字を使って

型式認定の番号を言うように

なり

例えば、九七式中戦車は、

皇紀2597年に型式認定された

中戦車という意味で、

この2597年というのは昭和12年

に相当し

同じく九七式中戦車と同じように、

一式陸攻、これは2601年という

意味だし、二式大艇も2602年

という意味なのだ

2602年は昭和17年に相当するのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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