どうも村田です

天皇にウソを言う
のだ。
天皇は、ご神託が
本当なのか迷い
そこで、
和気清麻呂公を呼び、
九州の宇佐八幡へ行って
確かめてくるよう命じた
のだ。
清麻呂公は宇佐八幡へ
おもむき、ご神前に出て
「真意をお教えください」
と叫んだのだ。
すると、光り輝く宇佐の
大神が現れ、
「天皇の後継者には必ず
皇族のものを立てなさい。
道鏡のような無道の者は
早く追放してしまいなさい」
とご神託を下さったのだ。
清麻呂公は都へ戻り、
大神のご神託を天皇に
報告したのだ。
野望をくじかれた道鏡は
激しく怒り、清麻呂公の
足の腱を切った上、
大隅国(鹿児島県)への
流罪(るざい)としてしま
うのだ。
さらには、大隅国へ向かう
清麻呂公を襲わせるために
刺客を放ったのだ。
足の腱を切られ、立つこと
すらできなくなった
清麻呂公だが、
皇室を守った大神に感謝
するため、宇佐八幡へ
立ち寄ることにしたのだ。
そして、一行が豊前国
(福岡県東部)に至ると、
どこからか三百頭もの
いのししが現れたのだ。
いのししたちは清麻呂公の
輿(こし=乗り物)の周り
を囲み、
道鏡の刺客たちから守り
ながら、十里(約40㎞)の
道のりを案内してくれたのだ。
清麻呂公が宇佐八幡での
参拝を終えると、いのしし
たちはどこかへ去っていった
のだ。
不思議なことに、清麻呂公
の足の痛みは治り、再び
歩けるようになっていたのだ。
話を本題に戻すのだ。
陽成天皇(ようぜいてんのう)
から
光孝天皇(こうこうてんのう)
へという流れも、
歴史をみると、陽成天皇は
そんなに悪い人だったのか
どうかというのは判断が
難しくて、
どうも朝廷内部の権力
争いが関係していそう
なのだ。
藤原基経
(ふじわらのもとつね)
と
藤原高子
(ふじわらのたかいこ)
はお互い折り合いが悪く、
どうも兄弟喧嘩のような
ものがあったというのが
背景だったみたいなのだ。
しかし北畠親房の解釈では、
陽成天皇は徳がなかった
ということで、
藤原基経が光孝天皇へと
皇統を移したことが、
天皇家と藤原氏の繁栄に
つながったというような
ことを指摘しているのだ。
また
四条天皇
(しじょうてんのう)
から
後嵯峨天皇(ごさがてんのう)
への流れだが、
承久の乱後にずいぶんと
混乱が生じてしまい、
最終的に四条天皇が
亡くなった後で、
順徳天皇
(じゅんとくてんのう)
の系統で行くのか
土御門天皇
(つちみかどてんのう)
の系統で行くのかが
争点となったのだ。
順徳天皇が承久の乱で
後鳥羽上皇
(ごとばじょうこう)
側についたということも
あって話が揉めたからなのだ。
そこで当時の実力者で
あった鎌倉幕府の
第三代執権・北条泰時
(ほうじょうやすとき) が、
土御門天皇の系統である
後嵯峨天皇へと皇統を
移したのだ。
後嵯峨天皇という人物も
立派で徳のある方なのだ。
いざというときに、
泰時は大事な仕事を
したのだ。
しかもこれは泰時ひとりの
力というよりも、正しい
皇統に連なるように
天皇を移したということ
には、天照大神の御神意が
入り込んだのだというのが
北畠親房の解釈になって
いるのだ
先ほどから出てくる
「徳」とは何かという
話なのだ。
北畠親房によれば、徳は
三種の神器に現れている
というのだ。
三種の神器とは、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
が天孫降臨する際に、
天照大神が
「鏡」「剣」「勾玉」
をお渡しになったという
話から来ているのだ。
『日本書紀』や『古事記』
にも出てくるのだが、
三種の神器の中で特に
重要なのは「鏡」であり、
天照大神が「鏡を私だと
思いなさい」
というふうにいって、
「常に鏡をあなたの
そばに置いておきなさい」
と命じたといわれている
のだ。
八咫鏡(やたのかがみ)
なのだ。
天皇の御心柱には鏡が必ず
置いてあり、誰も見たことが
ないといわれているのだ
ある意味では日本国の
中心には鏡があると
いうことではないだろうか。
「鏡」「剣」「勾玉」
はそれぞれある徳と
対応しているのだ。
鏡 正直
剣 決断や知恵
勾玉 慈悲
つまり正直・慈悲・知恵
(決断)の三つの徳こそが、
日本の政治において
天照大神以降
受け継がれてきた大事な
ものだということなのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

