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望むところだったんじゃ

どうも村田です

石原莞爾(かんじ)

自身は、支那事変の

発生当初から

即時停戦のため奔走

しているのに、もはや

部下たちが石原の

命令を聞かなくなって

しまっていたのだ。

石原は彼らを非難すると、

彼らは意味ありげな

笑みを浮かべて、

「石原閣下、われわれは

閣下が満州事変の時に

やられたのと同じことを

しようとしているんですよ」

と答えるのだ。

石原莞爾(かんじ)は

満州国だけに専念して、

万里の長城から

南の中国の本土には

不介入の方針でいるのに、

現地の日本軍が言うことを

聞かないのだ。

彼らは内モンゴル、

華北にまで勢力を広げて

親日政権をつくろうと

しているのだ。

「これでは蒋介石は

メンツにかけても後に

引くことができない。

考えてみたらば、確かに

これは6年前に本国の命令

を無視して、

戦果をどんどん拡大

していった満州事変の

時と同じ状況ではないか。

考えてみたら、満州事変は

石原莞爾(かんじ)自身が

悪しき先例をつくって

しまった出発点ではないか」

とも言えるのだ。

問題は日本国内の外交と

軍事の分裂で

本来ならば、この両者は

表裏一体で一元化されて

いなければならないのに、

軍部が外務省を無視して

二重外交を行い始めたのだ。

まずは、広田内閣の時に

軍部が興亜院というもの

をつくって、

対中国外交を外務省から

切り離して軍の支配下に

置いたのだ。

さらに、軍部の意思決定

そのものがどこから出て

くるのか、それすら曖昧に

なり始めていたのだ。

この時期、軍を動かして

いたのは佐官級以下の

幕僚層であり、

彼らは将官クラスの

意見をもはや聞かなく

なっていたのだ。

企業で言えば、部長・

課長クラスの中堅精鋭層が、

社長・重役などの経営陣

を無視して、会社の実権

を乗っ取ってしまった

ようなものなのだ。

日本国民全体が正体の

見えない統帥権に呪縛され、

操られ始めていたのだ。

陸軍も海軍も、

それぞれの軍務局長が

最高の権力と力を握って

いたのだ。

日本の軍政と民政を

水面下で事実上

コントロールしていたのは、

陸軍と海軍のそれぞれ

まだ年もいかない若い

軍務局長だったのだ。

政界や官界で催される

公式の宴会やパーティー

の会場で、

招待された陸軍と

海軍の軍務局長が

グラスを片手に持って

酒を飲みながら、

「そろそろ外務大臣を

変えてもいいころだな」

なんて公然と語っている

ありさまだったのだ。

さらに、彼らの下に

強力な参謀将校の

グループがおり、

国家の運命に関わる

重要政策を立案し、

内閣の更迭すら思いの

ままに左右し始めて

いたのだ。

石原莞爾(かんじ)

は参謀本部作戦部長

として、

断固として支那事変の

不拡大、即時和平を

主張し、孤軍奮闘したが、

拡大派の勢いを

押しとどめることが

できず、

作戦部長の職を追われ

たのだ。

軍の中央部から疎んじられ、

陸軍大臣となった東條英機

との対立はますます激しく

なり、

ついに1941年に辞職し、

現役を去って予備役と

なったのだ。

この予備役編入は、

むしろ彼の望むところ

であって、

これで長年の夢であった

フリードリヒ大王と

ナポレオンの戦史研究に

没頭できると、彼は心底

喜んだのだ。

石原莞爾(かんじ)

の資質、性格は、実務方面

よりもむしろ学問、

研究職に適している面が

あり、若い時からそちらの

方面に進んでいれば、

おそらく世界的に有名な

学者、思想家になっていた

だろう。

これで

石原莞爾(かんじ)の

軍人としての経歴は、

表向きは終わったわけ

なのだが、隠居生活

を送りつつも、

思索に没頭する彼の頭脳

はますますさえ渡って、

刻一刻と移り変わる

世界情勢をあたかも

鳥瞰(ちょうかん)図

のように

正確に俯瞰(ふかん)

していたのだ。

戦争が終わって2年

経った1947年5月、

東京裁判の出張所である

酒田臨時法廷に証人喚問で

呼び出され、病の体を

押して出廷したのは、

まさに石原莞爾(かんじ)

の最後のひのき舞台とも

言うべきものだったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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