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闇に葬られていたはずなんじゃ

どうも村田です

5.卒業前の国体学演習旅行で、

まず神戸の湊川神社で水戸光圀の

「嗚呼忠臣楠氏之墓」にお参り

した後、

後醍醐天皇の皇子護良親王 の

秘密戦の拠点であった吉野蔵王堂

において、

私が「護良親王と秘密戦」

と題して講話した。


ところが戦後五五年経って

二〇〇〇年ごろ、

「中野はできるだけ命を長らえて

お国のために尽くすべしと教え

られたのに、

なぜ二九歳に鎌倉東光寺で足利尊氏

の弟足利直義の重臣淵辺義博によって

処刑された人物を講話の主役にした

のか悩んだ。

南朝勢の中で親王は徹底的に足利尊氏

を嫌ったので、征夷大将軍となって

東北に赴任前に、

足利勢に捕らえられて鎌倉二階堂の

東光寺に幽閉されていたが、尊氏が

直義に親王を処刑してから上洛せよと

命じたので処刑されたというのが正史。

ところがそのころ南朝史研究家・

落合莞爾が、 淵辺義博が処刑したのは

替え玉であって、

親王は淵辺の所領のあった房総の

北条に逃がし、 船で奈良の西大寺に送り、

同寺で僧侶として一生を終えたという

秘史を発表。

私はこの時戦後最大の快哉を叫んだ。

「これこそ中野だ」と。

親王は幼少時京都大塔の宮で天台座主

として僧侶の出身であった。

楠木正成の場合四三歳という若さで

討ち死にしたが、刺し違えて自刃した

相手の弟正季が『七生報国』と叫んで、

忠君愛国が一代限りでないことを示した。

6.南方で民族独立運動に参加する

つもりであったので、宗教学と民族学

に励んだ。

民族学では「ユダヤ問題」、

宗教学では「イスラム教(回教)」

が得意科目だった。

宗教学で 「イスラム教と秘密戦」と題して、

今日で言う「イスラム・テロ対策の必要性」

を警告する論文を提出した。

戦後三乙会の集まりの時、谷口主任から

「阿部諒童教官が君の論文を高く評価

して学校長賞を本部に申請したが

『軍事学でないから駄目だ』

と却下された」と聞かされた時は驚いた。


戦後、小村不二男師主宰の

「日本イスラム友好連盟」に入会して

「スンニー派」を学び、

「イラン・シーア派」の世界的権威・

沢田沙葉師から神田学士会館で

「シーア派」の個人教育を受けた。

戦時中回教工作は東南アジア諸国の

民族解放、独立運動支援のために重要で、

中野乙二長の金子昇先輩

(大東文化大学理事長、

日本イスラム友好連盟理事長、号

「鉄斎」)は藤原機関の一員で

ムスリムとして活躍している。

7.日清・日露戦争では個人的スパイ談

が多く語られるが、中野は組織活動を

重視し、「中野出身者は団結が固い」

というのが定評であった。

例えば、大本営直轄の第一・第二次

「離島残置諜者」を、沖縄本島、

八丈島等・済州島から西南諸島に

派遣されていて、

米軍の本土へ向けての進攻状況を

いち早く無線機二機で報告したが、

六丙の将校と七戊の下士官と

二名の兵士の計四名一組で組織

活動を重視。

8.中野の愛唱歌「三三壮途(わかれ)の歌」

は生涯の伴侶。

最後に中野三丙柳田作詞

「三三壮途(わかれ)の歌」は軍歌

としては珍しい『七七調の歌』で

六節からなり、

「蒙古放浪歌」にヒントを得たと

いわれている。

戦後毎日のように歌うことによって

励まされ、忍耐力が養われて、

数々の困難を克服できた気がする。

昨年、中野学校の跡地に建てられている

学校幹事・福本亀治憲兵少将が刻んだ

記念碑前で歌い、都内雑司が谷の

秋草俊少将の「誠」墓碑にも捧げて、

心残りはないが、今後も生きて行く上で

絶対に欠かせない歌である。

戦後六節の中で最も愛唱したのは、

第二節目の

【要らぬは手柄浮雲の如き意気に感ぜし

人生こそは神よ与えよ万難我に】である。

中野では「舗装道路の下の砂利に成れ」

と教えられたから、戦後黙々と下を

向いて働いているうちに、

誕生年である大正一一年の勅題

(今は「お題」)を間違えて記憶して

しまった。

長い間「月光照波」と思っていたが、

二〇〇〇年に念のため調べたら、何と

「旭光照波」であったことを知って

驚いた。

因みに私の名前は父親が

「照」の字を採ってくれた。

秘密戦勤務は世間で騒がれるような

派手な仕事ではない。小野田少尉の件

が無ければ、その存在は闇に葬られて

いたはずである。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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