どうも村田です

アジアの歴史の
新たな輝かしい
局面を切り開く
実験国家となる
はずだったのだ。
ところが、今も謎と
されている支那事変
の発生と
アメリカの介入に
よって大東亜戦争が
始まり、
東アジアは混乱と
争いの場に追いやられ、
満州国と大日本帝国の
落日を迎えるのだ。
アメリカの介入によって
日本が散々に鼻面を
つかんで引きずり回され、
地べたにたたきつけ
られ、ねじ伏せられて
しまったたが、
迷惑を被ったのは
日本だけではないのだ。
蒋介石も中国共産党に
大陸を取られて追い
出されてしまったのだ。
イギリスも市場と
植民地を失ったのだ。
アメリカも中国大陸の
共産化によって門戸
開放の夢を断たれ、
アメリカ自身の戦争
目的もついえて
しまったのだ。
アメリカのやった
ことは、日本を
たたきつぶすこと
によって、
結果的に東アジアの
国際政治を混乱させて
しまっただけなのだ。
石原莞爾(かんじ)
は満州事変で八面六臂
の大活躍をし、
板垣征四郎と共に
満州国建国という
大事業を成し遂げた
のだ。
1931年に起きた
満州事変と37年に
起きた支那事変、
これは全く別個の
ものなのだ。
この2つをあたかも
連動しているかの
ように捉え、
満州事変から終戦まで
をひとくくりにして
15年戦争だなんて呼ぶ
人がいるが、
これはとんでもない
間違いなのだ。
満州事変は紆余曲折の末、
1933年5月の塘沽(タンクー)
停戦協定で一応決着が
ついたのだ。
その後、日本と中国の
双方は戦火を交える
こともなく、平和状態
が続いたのだ。
これを見ても、満州事変
は動乱の始まりではなく、
1920年代の混沌状態に
終止符を打つための
終着点だったことが
わかるのだ。
満州国の建国は
ものすごいスピードで
驚異的な発展を遂げ、
日本と満州国の提携は
着々と進み、満州国は
石原莞爾(かんじ)の
説く
世界最終戦争に向けての
日本の一大兵器勝負と
なるはずだったのだ。
欧米列強諸国による
帝国主義の外圧を
かわしながら、
アジア人によるアジアを
実現するためのアジアの
合衆国となるはずだった
のだ。
しかし、ある日突如として
1発の銃声が盧溝橋に
とどろいたことによって、
その後日本は破滅への
坂道を転がり始める
ことになるのだ。
支那事変が始まった当初、
これがますますその後
8年間も続く果てしない
泥沼になろうとは、
当時の日本人は誰も
思わなかったのだ。
それがなぜこのような
ことになってしまった
のか。
蒋介石は西安事件で監禁
・脅迫され、国共合作、
挙国抗日に踏み切ったが、
これは必ずしも彼の
本心ではなかったのだ。
蒋介石にとって真の敵
は中国共産党であって、
まずはこれを倒すこと
が先決問題だったのだ。
日本の軍部も、反共
という点では蒋介石と
一致していたのだ。
だから、満州国を北方の
ソ連に対する共通の
防波堤として、
「打倒ソ連」という
共通のスローガンを
示せば、
蒋介石と和解し、手を
取り合うことができて
いたはずなのだ。
ただしその場合、万里の
長城から南の中国本土には、
日本は絶対に手を出して
はならないのだ。
華北大平原は中国大陸
の中心であって、
中華文明のふるさとなのだ。
ここを奪われることは、
蒋介石にとっては精神的
な死を意味するのだ。
これは日本人にとって
郷土が外国に奪われる
ようなものなのだ。
支那事変が始まった当初、
石原莞爾(かんじ)は
不拡大派の先頭に立って
いたのだ。
「中国と戦えば持久戦争
に陥るのは明白であって、
北のソ連に備えるため
にも中国とは絶対に
戦ってはならない。
中国とは即刻和平し、
きたるべきソ連との
戦争に備えなければ
ならない。
日本の敵はあくまでも
共産ソ連である。
日本が打倒ソ連の姿勢
を明確にすれば、
蒋介石は必ずや日本を
信頼し、日本と和解する
であろう」。
支那事変が起きた直後、
石原莞爾(かんじ)は
近衛首相に対して、
南京に乗り込んで直接
蒋介石と会談するよう
進言したのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

