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自負があったんじゃ

どうも村田です

その後、日本からビルマに

潜入したアウンサンの協力の

もと、次々とビルマ独立の

志士たちを日本に脱出させる

ことに成功したのだ。

アウンサンも含め、総勢30名の

志士たちは海南島三亜【さんあ】

で軍事訓練を受けたのだ。

三亜の環境がビルマと似ていた

ためであるのだ。

その後、秘密漏えいの危険性を

感じて台湾の玉里【ぎょくり】

に訓練場所を移したのだ。

訓練場所の選定・開設、訓練の実施

などは、南機関員の中野卒業生に

よって行われたのだ。

開戦直後の

一九四一年一二月二八日には、

ビルマ独立義勇軍の編成を行い、

アウンサンは高級参謀となり、

司令官の鈴木大佐を補佐する

立場になったのだ。

一九四二年三月八日、

ラングーンは無血占領され、

翌九日には飯田将軍が入城したのだ。

鈴木は一三日にラングーンに赴き、

「ビルマの即時独立」を飯田に

訴えたのだ。

ところが、飯田 はすでにはビルマを

軍政支配することに決めていたの

だったのだ。

第一五軍司令官だった飯田中将は、

度量の小さい男だったのだろう。

大本営参謀本部からの命令では

あったのだが、 飯田自身がビルマ

独立の承認を躊躇したのだろう。

英印軍をビルマから駆逐すれば

独立で きると信じていたアウンサン

以下のビルマ独立義勇軍はもとより

ビルマ人民も、ラングーンを攻略

しても独立が認められず、軍政を

施行しようとする日本軍に不信感を

持つようになったのだ。


このような経緯からか、

一九四二年六月一八日、南機関は

解消され、鈴木は近衛師団司令部付

になり東京に戻ることになった

(陸軍の一部首脳の策動による

事実上の鈴木更迭と見られる)。

総指揮をアウンサンに移譲された

ビルマ独立義勇軍は、ビルマ防衛軍

(BDB)に改編されたのだ。

一九四四年三月から七月にかけて

行われたインパール作戦での日本の

敗北が自明になると、

アウンサンは英国につくか日本に

つくかで悩み、結果日本と敵対する

ことになるのだ。

アウンサンを支援していた

中野出身者たちも、日本とビルマの

間で板挟みになっていたのだ。

情報機関というのは、国家の政策や

イデオロギーの狭間で板挟みになる

ケースが多いのだ。

終戦後、アウンサンは英国から

独立を勝ち取ったのだ。

ビルマ独立の立役者はアウンサンら

独立の志士たちではあるが、その陰で

南機関の鈴木大佐と中野出身者たちが

活躍したことは歴史的な事実である

のだ。

ミャンマー政府は一九八一年四月、

南機関の機関長だった鈴木敬司大佐

をはじめ同機関員の泉谷達郎元中尉

(日本ミャンマー歴史文化研究会初代会長)、

杉井満氏、川島威伸元大尉、

高橋八郎元中尉、赤井(旧姓鈴木)八郎氏、

水谷伊那雄氏の各氏に、

国家最高の栄誉

「アウンサン・タゴン

(=アウンサンの旗)勲章」を

授与したのだ。

彼らの多くが中野学校出身者である

のだ。

鈴木大佐はすでに他界されて

いたので、鈴木少将(最終階級)の

未亡人の節子さんが勲章を受け取った

のだ。

一九四二年二月一五日の

シンポール陥落後の四月、

藤原岩市少佐率いるF機関は発展的に

解消したのだ。

この時点で、F機関によって創設

されたインド国民軍(INA)は

五万五〇〇〇人の兵力にまで拡大

していたのだ。

このインド国民軍を引き継いだのが

「岩畔機関」であるのだ。

機関長は、陸軍中野学校の生みの親

である岩畔豪雄大佐であるのだ。

この措置は、F機関によって開始

されたインド独立工作を大規模な

国策的施策にまで拡大・発展させる

ためであったのだ。

機関の人員規模も約十倍 に増やし、

総勢200名ほどに拡大したのだ。

その中枢要員は中野出身者だったのだ。

マレー作戦と同様にビルマ侵攻作戦

においても英軍の中のインド兵の

寝返り工作を試みたが、

それを恐れた英軍はインド兵を

後方に下げ、前線には中国兵を

展開して対応し、

ンド兵の取り込みは空振りに

終わったのだ。

インド国民軍はインド独立連盟(IIL)

の支配下に置くことが決められたが、

両者の間では確執があったのだ。

インド独立連盟としては、

インド国民軍を統括する

モーハン・シンなどが主導権を握ろう

としていることが不満だったのだ。

インド独立連盟側に言わせれば、

そもそもインド国民軍の将兵は

もともと英軍として戦っていた

者たちではないか。

その点、 インド独立連盟のメンバーは、

投獄されても英国に反抗してきた真の

闘士なのだ」――という自負があったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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