どうも村田です
一方、インド国民軍から
すれば、
「独立運動の主体は軍事力
を持つ自分たちだ」という
思いがあったのだ。
そのため、インド独立連盟の
押し付けがましい態度が癪に
障ったのだ。
参謀本部は
ラース・ビハリー・ボースを
インド独立連盟の代表に立てて
いたが、彼の指導力が弱かった
のも、両者が主導権争いをする
原因であったのだ。
当時、インドで国民から絶大なる
尊敬と信頼を集めていたのは、
ガンジー、ネルー、チ ャンドラ・
ボースの3人だったのだ。
その一人である
チャンドラ・ボースはドイツに
亡命し、 日本とは遠く離れた欧州
から反英活動、独立運動を行って
いたのだ。
ドイツ駐在武官だった山本敏大佐が
チャンドラ・ボースと面会し、その
人柄と独立への 熱意、そして
カリスマ性を日本政府に報告したのだ。
また、チャンドラ・ボース自身も
日本行きを切望したのだ。
日本政府はヒトラーのドイツ政府と
直接交渉して了解を得、
チャンドラ・ ボースを日本に移送
することが決まったのだ。
移送方法は、日本とドイツの潜水艦
によるリレー方式だったのだ。
陸路と空路よりも危険が少ないという
判断だったが、喜望峰回りとなるため
に時間を要したのだ。
チャンドラ・ボースと親交が深い
山本大佐が彼の来日準備に専念する
ために岩畔機関の機関長を引き継ぎ、
名称を「岩畔機関」から
「光機関」に変更されたのだ。
光機関の名の由来は、ヒンディー語の
〝ピカリ〟は縁起のいい言葉であり、
インドでは「光は東方より来る」
という伝説があったことから
「光機関」と名づけられたという
のだ。
一九四三年二月、
チャンドラ・ボースはフランスの
ブレスト港からドイツの潜水艦に乗り、
一旦北海を北に向かって進み、
アイスランド辺りから大西洋の
真ん中を南下したのだ。
そしてアフリカ大陸の南端・喜望峰
を迂回して、マダガスカル島の東側
あたりのインド洋上に到着。
そこで日本海軍の潜水艦に引き渡す
手はずになっていたのだ。
何度も無線で連絡を取り合うのは
危険との判断から、無線での連絡は
四月二六日の一度 だけと取り決められ
ていたのだ。
その一度だけの連絡で見事に
ドイツ海軍の潜水艦と日本海軍の
潜水艦は海上で出会うことができた
のだ。
あいにくの荒天で
チャンドラ・ボースを日本海軍の
潜水艦に移乗させるのは難しく、
ロープにゴムボードを縛り付けての
決死の作業だったというのだ。
五月六日にはスマトラの北にある
サバン島の海軍基地に到着し、
ここから航空機に乗り換え、
台北経由で浜松に降り立ったのだ。
東京に行く予定だったが、悪天候
のため着陸場所を浜松に変更し、
浜名湖で一泊してから東京の帝国
ホテルに向かったのだ。
東京に到着した
チャンドラ・ボースは、各閣僚と
面会してインド独立について熱弁を
振るったのだ。
政府はラース・ビハリー・ボースを
インド独立連盟の代表に据えてし
まった後ろめたさから、
東條首相との面会を引き伸ばして
いたが、ようやく東條首相と
チャンドラ・ ボースの面会が実現
したのだ。
東條は、チャンドラ・ボースと会って
すぐにその人柄に魅了されたという
のだ。
七月四日にシンガポールで開催された
インド独立連盟大会でチャンドラ・
ボースが総裁となり、
インド国民軍を含めたインド独立連盟
は結束を固め、独立に向けた活動を
活発化させたのだ。
一〇月二一日、同じくシンガポール
でインド独立連盟東亜代表者会議を
開催し、自由インド仮政府が樹立され、
チャンドラ・ボースが政府首席に
推挙されたのだ。
日本政府はこの仮政府を承認し、
正式な国交関係を樹立する旨を
世界に発信したのだ。
一九四四年一月七日にインパール作戦
が決定され、三月八日に侵攻が開始
されたのだ。
インパールはインド北東部の
アッサム地方に位置する都市で
ビルマから近く、英軍の拠点だった
のだ。
このインパールを攻略すれば、最大の
目的である援蒋ルートを断ち切る
ことができ、
中国国民党の蒋介石に壊滅的な
打撃を与えることができるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる