どうも村田です

三島はまさに
価値を論じだすのだ。
つまり、文化と力、
もう少し言うと
菊と刀をつなぐ
ところの
文化概念としての
天皇、これを論じて
彼は自決するという
ことになるのだ。
彼も価値に殉じた
人なのだ。
もちろんこの価値が
いいかどうかは別で
それは今日は論じないが、
しかしながら、やはり
価値の問題をずっと
問うてきたということ
なのだ。
そして西部邁(すすむ)、
彼は『大衆への反逆』
の中でこう言っている
のだ。
1583年、まさにバブルが
始まろうとしているその時、
彼はこう言っているのだ。
「(オルテガの言う)
大衆社会がこの日本ほど
見事に実現されている
国はほかになかろう。」
ちなみにこの大衆の
定義はこうなのだ。
自己閉塞、自己満足、
そして忘恩、恩を
忘れているのだ。
つまり他者との関係、
先祖との関係、
自分たちの足元、
これがなく、
エゴイスティックに振る
舞っているということ
なのだ。
「このエゴイストたち
の国になっちゃった」、
そしてこう言って
いるのだ。
「後ればせながら、
今にして思えば、
敗戦後の日本社会は、
彼の不気味なシナリオ
の実験劇場だった。」
彼、つまりオルテガ
なのだ。
「我が国の近代化と
いうのは、つづめて
言えば、
ヨーロッパの達成を
無邪気に模倣すること
だった。」
そこには自分たちの
価値への問いがなかった。
「それは適応としての
生であって、自由と
しての生ではない。」
常にヨーロッパ、
そしてアメリカなど、
適応するべき相手が
いるのだ。
それは適応の生であって、
自由、つまり自己本来の
自己本位の価値に基づいた、
そういう生では
なかったのだ。
「自由があったと
しても勝手気儘の自由
であって
孤独な自己懐疑に
根ざす真の自由ではない。
こうした種類の意味喪失
こそ、私たちが日々
味わっているものである」
と言って、
彼は大衆社会批判と
近代保守思想という
ものをどう立ち上げるか
というプロジェクトに
取り組むことになるのだ。
そして、彼がいつも
言っているのは、離米、
経欧、それと帰日だと
言うのだ。
簡単で
つまり、離米というのは
「一度だってアメリカの
力の体系におんぶにだっこ
って、
それを疑ったこと
ないじゃないか。
それは一度疑え」
ということなのだ。
疑ったそのことを彼は
離米と言っているわけ
なのだ。
これは反米ではない
のだ。全然違うのだ。
単にアメリカとの距離を
まず作れ、その陰に
おいて親日保守になれ
という話なのだが、その
中で経欧、欧米を通れと
言われているのだ。
ここは西部邁(すすむ)
だが、つまり欧米という
のはどういう欧米かと
いうと、
私たちが文明開化をして
背伸びをして憧れた
欧米ではないのだ。
これは徹底的な
自己懐疑の精神なのだ。
ニーチェを読め、
ショーペンハウアーを
読め、あるいは
シュペングラーを読め、
ヴィトゲンシュタイン
を読め、
彼らがいかに自分の
足元について自己懐疑を
したか、
そして懐疑して懐疑して、
疑って疑って疑っても
疑い切れない足元を
見つけ出すことによって
自分を立ち上げるのだ。
それが経欧の作法で
あるゆえに、疑いを
経た人間だけが、
帰日、つまり日本に
帰ってきて素直に
自分の感性、
これが日本人だと言える、
その価値概念を持つ
ことができるだろう、
この経験をしない限り、
日本人は蘇らないよ、
と彼は言うのだ。
私たちは今2025年
10月21日、高市政権の
成立を見たわけだが
高市政権をどう
見るべきかで
もちろん、
これから証明される
べきことだと思うし、
軽々にまだ結論は
出ないと思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

