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分析してたんじゃ

どうも村田です

手紙についても、

当然開封されている

ことは承知のうえで、

手紙の文章の暗号化、

それから筆跡の使い分け、

あぶり出しの仕様封筒に、

別の書状を2通入れる

という、

そういうことをやって、

よしんばそれを暴かれた

ときの言い逃れのために、

アリバイ作りにも余念が

なかったというような

ことが言えると思うのだ。

それで、ロシアは

明石工作を矮小化しよう

と、現在も偽情報工作を

仕掛けていると、

それは口頭だけじゃ

なくて文書でも

おそらくやっている

のではないかと思うのだ。

例えば、北欧における、

あるいはバルト3国に

おける明石さんや

小野寺さんの日本の

インテリジェンスを

研究に行かれた方たちが、

残念ながら帰ってきて、

「ロシアの防諜がすごくて、

日本は歯が立たなかった」と、

そういうような研究成果

しか得られないような

現実が残念ながらあるのだ

こういったロシア側の

プロパガンダに乗せられて、

明石工作という日本の

金字塔の諜報を、

インテリジェンスを矮小化

してはいけないと強く思う

のだ

『明石工作』

材料になったとされる

『日露戦争の秘密』という、

日本語訳で出版された

パヴロフとペトロフの本

だが、もし興味があれば、

これを読んでみて

いただきたいと思うのだ。

さて、それでは明石は

こういった難問に対して

どういうような努力を

して解決していったのか

を見ていきたいのだ。

語学の天才だった

わけなのだが、では

どうやってマスター

したのか

ということを簡単に

話したいと思うのだ。

参謀本部に勤務し

その時にまず参謀本部に

来て、ドイツに留学

しているのだ。

ドイツに留学した時に、

ドイツ語を1年かそこらで

マスターしているのだ。

ドイツから帰ってきて、

今度は1901年に、

フランス公使館付きの

武官になるのだが、

ここでも、フランスに

行って数ヶ月で

フランス語を習得した

ようなのだ。

それから翌年1902年に

次はロシアの武官に

命じられるのだが、

これはわずか3ヶ月で

ロシア語を会話できる

ようになったという、

何かコツを持っているのだ。

それから、本当に

国のために学ばなければ

いけないという、

そういった使命もあった

のだと思うのだ。

一般的に、人から

情報を得る

ヒューミント、ヒューマン

インテリジェンスという

のがあるのだ

けれど、ヒューミントの

場合に、語学力というのは

いろはの「い」、

非常に重要なのだ。

語学力が乏しければ、

外国では、情報を相手

から引き出すことは

できないのだ。

3ヶ国語、あるいは

英語も含めた4ヶ国語を

習得したからこそ、

明石はヨーロッパで

天賦の才を発揮できた

というふうに考えている

のだ。

それから、意外と

思われるのだが、

明石さんは

ロシア公使館時代を

中心に新聞をよく

読んでいたのだ。

それはロシアの新聞

だけではなくて、

ドイツ、フランス、

ロシアをはじめ

ヨーロッパ各国で発行

された新聞は取り寄せて

いて、それで読み比べて、

ニュースから投書欄まで

すべて丹念に読んで、

そこからロシア軍の

動員力やロシア軍の

輸送状況、

それからロシア軍の

配置というものを新聞

から情報を得て、

これを確定した事実

として内部情報を得て

いたのだ。

いわゆる現代のオシントを、

明治時代にヒューミント

のみならず、

公開情報を分析する

オシントを活用していた

ことが、

やはり明石さんの

ストロングポイント

だったのではないかな

というように思うのだ。

実は、ニューヨーク・

タイムズの、われわれ

栄光の東郷平八郎の

日本海海戦の報道で

やはり対馬沖の日本海で

バルチック艦隊を迎え撃ち、

大勝利を収めたという話は、

ニューヨーク・タイムズ

の一面で大きく書かれる、

ほぼ半分を埋めたのだ。

これぐらい日露戦争

というか、ロシアと

日本の動きを世界は

注目していたのだ。

こういう注目をした

ロシアの動きについて、

新聞を取り寄せて分析

していたということなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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