どうも村田です

東京裁判の出張所
である酒田臨時法廷
に証人喚問で呼び
出され、
病の体を押して出廷
したのは、まさに
石原莞爾(かんじ)
の最後のひのき舞台
とも言うべきもの
だったのだ。
この法廷で彼は、
「もしも自分が戦争を
指導していたらば、
日本は断じて敗戦には
至らなかった」
と主張し、その理由を
次のように述べたのだ。
「私が戦争指導をやったら、
補給線を確保するため、
ソロモン・ビスマルク・
ニューギニアの諸島を
早急に放棄し、
戦略資源地帯防衛に転じ、
西はビルマ国境から
シンガポール、スマトラ
中心の防衛線を構築し、
中部はフィリピンの線に
退却する。他方、
本土周辺および
サイパン・テニアン・
グアムの南洋諸島を
一切難攻不落の要塞
(ようさい)と化し、
何年でも頑張り得る体制を
とるとともに、外交的には
支那事変の解決に努力を
傾ける。
特にサイパンの防衛には
万全を期し、この拠点は
断じて確保する。
日本が真にサイパンの防衛
に万全を期していたらば、
米軍の侵入は防ぐことが
できた。
米軍はサイパンを奪取
できなければ、日本本土の
爆撃は困難だった。
それゆえサイパンさえ
守り得ていたら、
レイテを守り、
当然五分五分の持久戦で
断じて負けてはいない。
蒋介石がその態度を
明確にしたのは、
サイパンが陥落してから
である。
サイパンさえ守り得たら、
日本は東亜の内乱を
政治的に解決し、
支那に心から謝罪して
支那事変を解決し、次に
民族の結合力を利用して
東亜一丸となることが
できたであろう」。
石原莞爾(かんじ)の
思想は、まさにあっと
驚くような発想の転換
なのだ。
「こういった戦況判断
は誰でもできる」
と言う人がいたら、
それはとんでもない
思い違いというもの
なのだ。
これができなかった
からこそ、日本が
負けたのだ。
必要にも満たない
わずかな軍隊を、
サイパン、テニアン、
レイテに分散して、
もろくも敗れたのだ。
「サイパンが日本本土
防衛の最重要地点である」
と早くから着眼していた
のは、ただ1人、
石原莞爾(かんじ)
だけだったのだ。
左遷され、予備役に
なって、隠棲していた
石原の度重なる献策を、
軍の上層部は採用
しようとはしなかった
のだ。
酒田臨時法廷で
石原莞爾(かんじ)は、
連合国の判事、検事を
相手に一歩も引かず、
堂々たる論陣を張り、
時には彼らを翻弄
(ほんろう)したりした
のだ。
その見事な弁論と
驚異的な頭脳は、
彼らを驚愕
(きょうがく)させ、
最後は彼らの心に深い
感激を与えたのだ。
そうして、
「石原のような天才を
日本の戦争指導部はなぜ
遠ざけて用いようと
しなかったのか」と、
逆に彼らの方が驚き、
かつ呆れたのだ。
石原莞爾(かんじ)
は東京裁判に際して、
「早くから満州国建国
に最も深く関わったのは
自分であり、
日本の戦争責任を裁く
のなら、戦犯第1号は
自分である。
まずは私を裁判にかけよ」
と自ら戦犯に指名される
ことを要求したのだ。
この石原と同様の態度を
とったのが、大東亜戦争
の理論的指導者であり、
思想家であった
大川周明なのだ。
しかし連合国は、結局
この両名を戦犯から
外したのだ。
もしもこの2人を法廷に
登場させたならば、その
聡明な頭脳と精緻な
論理展開によって、
東京裁判はいかさまの
茶番劇であることが、
そして欧米列強の
アジア侵略の歴史が
白日のもとにさらされて
しまうのを恐れたのだ。
大川周明といえば、
東京裁判の冒頭で
東條英機のはげ頭を
ぴしゃっとたたいて、
途中で裁判から外されて、
精神病院に収監された
エピソードはあまりにも
有名なのだ。
この時、大川周明を
診察したのは主治医の
内村祐之(ゆうし)
東大名誉教授だが、
内村博士は次のように
断言しておられた言葉を、
鮮明に記憶してます。
内村博士は次のように
おっしゃっていた。
「世間では、
『大川周明が戦犯の罪を
逃れるために仮病で精神病
を装って、
裁判が終わると、実に
タイミングよくたちまち
正気に返った』
なんてうわさをされて
いるが、自分が診察した
限りでは、あれは紛れも
なく脳梅毒の進行まひ
症状だった」と、
内村博士はおっしゃって
いたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

