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素晴らしい人だったんじゃ

どうも村田です

昔、ものすごく厳しい

評論家の小汀利得

(おばまりとく)さんとの

対談の中で述べているのだ。

もっと驚いたのは、

このころから

「自衛隊のトイレに

トイレットペーパーがない」

ということまで書いているのだ。

「それは予算がないからだ」

と言っているのだ。

それが国会で取り上げられて、

少しは改善したという話は

聞いてるけれど、

予算がありませんから、

しばらくしたらまたもとに

戻るのだ。

先生はマイナス面も知りすぎて、

どれだけ自衛隊が虐げられて

きたかということも知り尽くして

いたわけなのだ。

この文面から、三島先生の

自衛隊に対する愛と切実な思い

が伝わってくる、そのような

思いがこみ上げてくるのだ。

この思いこそが、三島由紀夫

として自衛隊のためにひと肌

脱ぐ決意をした理由であった

だろうということが理解できる

のだ。

私が感受性の高い、

20 歳~21 歳という青春の

真っただ中で感じたことなのだ。

三島由紀夫というのは、何しろ

根はものすごく真面目で純粋なのだ。

だから、彼は『太陽と鉄』という

本の中でしっかりとうたっている

わけなのだ。

「自衛隊の中には純粋で素直な

人がたくさんいる。僕はそれが

大好きなのだ」

ということまで言ってるのだ。

それは、本人が純粋だからなのだ

私は1ヶ月一緒にいて、それは

間違いなく彼の生身の、本当の

姿だと私は感じたのだ。

「自衛隊は長年に渡り、社会的に

しいたげられ、無慈悲な扱いを

受けてきた。

国民感情からしても正しい扱いを

されてこなかった。

その思いは、多くの自衛官が好むと

好まざるとにかかわらず、抱いて

きた感情である。

自衛隊を知りすぎた三島先生は、

本物の日本が存在する自衛隊を

愛した由(ゆえ)に、〇〇〇のために

決心されたものと思う。」

「〇〇〇」とは、自衛隊のために

決心されたと、私はそのころから

そう思っていたのだ。

「このことに関しては頭がさがる

思いがするし、 想い出せば出すほど、

やるせない思いがこみ上げて来る。」

この文章は、三島先生が自決の

2ヶ月前に、自分がお世話に

なった滝ヶ原自衛隊の新聞

『たきがはら』

の創刊号に寄稿された、貴重な

資料であるのだ。

冨澤さんが西郷南洲の言葉に

ついて解説していたが、

三島先生は

「最も大切な命は部下の

ために捧げる」と、

その自分の大切な命を自衛隊の

ために捧げたといっても言いすぎ

ではないと私は思っているのだ。

三島先生の自衛隊に対する愛着は

人一倍であったと感じているのだ。

純粋で誠実な若い隊員と談笑している

姿には、文学者三島由紀夫の顔など、

どこにも見られないのだ。

終始ほほ笑みを浮かべ、あどけない

顔が満面に表れ、仮面を脱いだ本当の

平岡公威がそこにあったのだ。

三島先生がある本の中で、

「自分はずっと仮面をかぶってきた」

と書いている文章がどこかにあった。

それを後で一生懸命探したのだが、

どこだったか見つからなかったのだ。

「もしかしたら、私の夢の中で

三島由紀夫がこういうことを

言ったのかな」

という思いもあるのだが、私の中には

どこかで読んだ記憶があるのだ。

このように「らしく」、ステキ

すぎる三島先生、今はこれに

「男女」と付けるといろいろと

言われるから、

「らしく」と言っているけれど、

私に言わせれば、本当に

「男らしく」、

すてきすぎる三島由紀夫で

あったのだ。

そのような三島先生の傍で直に

接することができた私は、

誰よりも幸運に恵まれた果報者で

あったと思うのだ。

三島先生との出会いは、自分の

人生に大きく影響したのだ。

その第1は、プロの自衛官を

目指し幹部になったことなのだ。

私は、自衛隊は4年、2任期で辞めて

社会に出ると 99%考えていたのだ。

ところが、私の中隊の副中隊長

である岩田一尉は、私にずっと

「君が辞めたら自衛隊はおしまいだよ」

と何度も言われたのだ。

当時、岩田一尉は防大第4期の

トップだったのだ。

「すごい人物だ」

ということをたくさんの人から

聞いているのだ。

私もそういうふうに岩田一尉と

頻繁にお話をしておったので、

「とんでもない人物で、性格の

優しい、そして思いやりのある、

だからこそ同期でトップに

なってきたのだな」

というふうにずっと思って

おったのだ。

しかし残念なことに、最近彼が

どこまで出世したかということを

調べたところ、

最後は第10師団長、それから

防衛研修所の副所長となって退官

されたということで、

本当に気の毒でなりません。

とても素晴らしい人でした。

私は三島由紀夫と接した時に

岩田一尉とも長く接触して

おったので、彼の素晴らしさは

私が一番知っていると思うのだ。

それで、彼が私を三島付きに

命じたわけなのだ。

おそらく岩田一尉は、

「その任務に就けたら、絶対に

心変わりするだろう」

というふうに踏んでいたと思うのだが、

その通りになってしまったのだ。

さらに向上心があったので、

「幹部を目指そう」

ということで原隊復帰して、

第3中隊に帰ってきたところへ

〇〇さんがおいでになって、私の

面倒を徹底して見てくれた

ということなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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