どうも村田です

独断で現地軍に
「反撃せよ」、
「断固反撃せよ
ソ連を撃滅せよ」
と命じているのだ
遺訓でこう振り返り
「自衛のための戦闘
だったのだ。終戦詔書が
下り、完全なる統帥権が
なかった。
しかし、自衛権発動に
関して堤師団長」
現地の防衛隊の隊長に
「師団長に要求した
ところ、勇敢に自衛
戦闘を戦ってくれた」
と、こうあるのだ。
現地の将兵たちとの
意思疎通も非常に密接で、
樋口の意向を
そのまま受け継いで
いい関係にあったと、
部下と上司の関係も
いい関係にあったから
こういうことができた
というようなことだと
思うのだ。
言わずもがなだが、
抵抗がなければ北海道の
占領、日本も分断されて
いたのだろうということ
なのだ。
今も残っているのだが、
この時に戦った戦車が
これは占守島に今も幾つか
残っているのだ。
この時に戦った勇敢な
勇猛な戦車部隊のことを
今、北海道の陸上自衛隊
の第11戦車隊というのが
あるが、
この伝統を継承して
「士魂戦車大隊」
と称しているのだ。
日本軍の交戦で、1日で、
予定ではロシア軍、
ソ連軍はわずか1日で
占守島を占領する予定
だったのだ。
なぜなら、相手は無傷だと
いうことが分かっていたし、
反抗してこないと思って
いたのだ。
ところが日本軍の大攻勢で、
大反撃でソ連軍は苦戦する
わけなのだ。
そして実質3日間の戦闘で、
これはあくまでもソ連側で
日本側はもっと大きいのだが、
ソ連側の資料の数字で
日本軍の死傷者が1,018人に
対して、ソ連側は1,567人、
それからソ連政府の機関紙
である「イズベスチヤ」は、
「占守島の戦いは満州、
朝鮮の戦闘より損害は
甚大だった。
8月19日は
ソ連人民の悲しみの日」と、
これを社説で報じているのだ
この時だけではなく、
現在もこの時の戦いの
ことをロシアはどう
報じているか
ということを伝えたいのだが、
数年前に、サハリン州の
ネットメディアの通信社、
「サハリン・インフォ」
というのがあるのだが、
これによると、
日ソ戦でソ連側が日本側
より多くの死傷者を出した
唯一の戦いだったと評して
いるのだ。
樺太から占守島の千島の
樋口防衛ラインは十分
機能して終始優勢だった
のだが、
日本軍は侵攻5日目の23日
に武装解除に応じることに
なるのだ。
このことについて樋口は
こう遺訓で書いているのだ
「日本軍最後の戦史が、
不徹底の『戦勝』をもって
終止符が打たれ、
勝者が敗者に武装解除
されたことは、なんとも
残念千万であった」と、
こう書いているのだ。
この時にいかにソ連軍が
混乱をきたして、日本軍
の反撃に混乱をして
自暴自棄とまでは言わないが、
本当に内部で、予想外の
反撃に戸惑っていたことを
示す新たな資料が
アメリカ人の政治評論家
ロバート・エルドリッヂ
さんが、
アメリカのマッカーサー
記念館に訪れて発見された
ので、少しだけ紹介させて
いただくのだ。
1945年の8月18日に
占守島にソ連軍は侵攻
したのだが、
当時の連合国最高司令官、
最高司令官総司令部に
あった文書の1つとして、
その当時にソ連の赤軍
参謀本部の特別部長だった
ニコライ・スラヴィン
という人がいるのだが、
この人はリエゾンとして
アメリカ側とのパイプ役
というか、
連絡係としてソ連
参謀本部にいたのだが、
この人が、何を隠そう
23日、侵攻してから5日目、
もう決着はついて武装
解除しようとしていた
矢先の日に、
スラヴィンソ連参謀
本部からマニラの
マッカーサー司令部に
問い合わせ電報を送って
いるのだ。
何と、ソ連が侵攻した
にもかかわらず、
「占守島に上陸したのは
アメリカ軍ではないのか」
と、
これはモスクワの
ディーンという、
アメリカ軍の軍事使節団
の代表を通じて
マッカーサーに問い
合わせるわけなのだ。
「冗談じゃないよ、
何を言ってるんだ」と、
マッカーサーはここで
即座に、
「何を言ってんだ。
上陸したのはソ連軍
じゃないか」
と即答しているのだ。
本当に奇天烈(きてれつ)
の奇想天外の行動なのだ。
それほどソ連参謀本部内
で混乱をきたしていた
ということが分かるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

