どうも村田です
渋沢栄一の父親は
文武両道の教育を一生懸命
やったのだ。
当時、裕福な豪農、豪商の子弟は、
当時の侍と同じような教育を
受けているのだ。
つまり、四書五経を中心とした
儒教、漢学なのだ。
それを10代後半まで徹底して
学ぶわけなのだ。
お父さんは栄一が素晴らしい素質
を持った息子であったものだから
将来を期待したのだ。
そして、14歳になったころ、すでに
家業の見習いをさせているのだ。
その時すでに優れた商才を発揮
したのだ
優れた後継者ができたということで、
ますますお父さんは期待するのだ
ところが、渋沢栄一はお父さんが期待
した通り進まなかったのだ。
どういうことかと言うと、時代が
時代で、 生まれたころは承知の通り、
日本の危機、国難に直面しておるのだ。
栄一が14歳の時にペリーが来航して
19歳の時にハリスがやって来て、
日米通商条約が調印されるのだ
こういう幕末の危機・国難時、渋沢栄一は
「このまま推移するならば、日本は
大変なことになっ てしまう。
お隣のシナや、あるいは
インドのように欧米列強の植民地、
属国になってしまう」ということを
真剣に憂いたのだ
そしてこう考えたのだ
「徳川幕府の政治・外交が続く限り、日本の
国は持たない。日本はインド、清の二の舞に
なってしまう」
そう思い、
「徳川幕府を打倒して新しい日本をつくる。
そして日本を植民地、属国として狙っている
欧米列強を打ち払う」
そういう思想を強く持つようになるのだ。
この思想のことを尊皇攘夷と言うのだ。
明治維新の運動は尊皇攘夷の運動
とも言われているのだ
尊皇というのは天皇、朝廷を
尊敬することなのだ。
攘夷というのは欧米列強を打ち払う
という意味なのだ。
そうして日本の独立を堅持する、
維持する、こういう主張に、10代後半
から20代の前半にかけて共鳴するのだ
そうして同志を募り、何と実践活動、
徳川幕府を打ち倒し、攘夷を実践する、
そういう計 画までを立てるのだ
思いもよらぬ過激な青年だったのだ。
後年の渋沢栄一は、恵比寿さまのように
人々からその素晴らしい人格をたたえ
られるのだが、
20代前後の渋沢は、薩摩や長州にいる
尊王攘夷の人たちとほとんど変わらない、
大変過激な、愛国的な、憂国的な人物
だったわけなのだ
このようにして渋沢は尊皇攘夷の
趣旨に変身してしまうのだ
渋沢の人生ほど興味深い、あるいは
劇的な人生はあまりないのだ
大きく人生が6回変わっているのだ。
まず第1、お百姓さんだったにも
かかわらず、その仕事をうち忘れて、
尊王攘夷の志士となったのだ。
そして徳川幕府打倒の運動に立つのだ。
同志を80人ばかり結集して、まず
近くの高崎城を乗っ取り、その後
横浜の外人居留地を焼き払い、
外国人を切り殺し、ここから倒幕に
持っていく、このような過激な
計画の首謀者だったのだ
渋沢の伝記はこのごろ随分たくさん
出ていて、多くの人が読むように
なったけれど、渋沢が若い時、
まさかこんな人だったということは
意外に知られてないのだ。
ところが、この渋沢の過激な運動は
幕府に知られることになるのだ。
要注意人物で
目を付けられるのだ
もう地元や、それからよく江戸に
出入りしていたけれど、江戸に入る
ことができなくなり、京都の方に
逃げていったのだ。
捕まったらおそらく死刑に
なったと思うのだ
そうして京都に行き、どうなったか、
これまた面白いのだ
第2の人生の転換では
何と一橋家の家臣になるのだ。
一橋家とは御三卿と言われる、
徳川将軍家の親戚なのだ。
御三家は存知の通り
尾張、紀伊、水戸なのだ
この御三家は、徳川家に将軍の候補者
がいなかったら、この御三家から将軍
を出す、そういう特別な家なのだ。
ところが御三家だけでは将軍候補者が
いない場合があるということで、
途中で御三卿というのがつくられるのだ
将軍吉宗の時代で
一橋家、清水家、田安家というのが
出来上がったのだ。
この一橋家の家臣にはからずも
なってしまうのだ
京都に逃げていくのだが、京都に
逃げていっても危ないのだ。
このまま行けば捕まって死刑なのだ。
そこでひょんなところで一橋家の
重臣である人から誘われたのだ。
「君のやったことみんな知ってるよ。
しかし君、なかなか有能な人物だから、
どうだ、一橋家の家臣にならないか」、
一橋家の当時の当主が最後の将軍、
徳川慶喜なのだ
徳川慶喜はご承知の通り水戸徳川家の
出身であるのだ。
非常に優秀だから、将軍候補者として
一橋家の党首になったのだ。
その次か次の将軍になるという
予定の人なのだ
そして、最後の15代将軍だったのだ。
それで非常に有能な家臣を求めていた
ものだから、
「どうだ、君、こっち来ないか。
今のままでは大変な目にあうよ」
ということなのだ
そこで困ったのだ。
なぜならば、徳川家は渋沢栄一たち
が打倒の対象としていた幕府なのだ。
そこの家臣になったら同志を
裏切ることになるのだ。
しかしながら、このままいったら
捕まってしまうから、ついに
一橋家の家臣になってしまうのだ
そしてその後すぐ、徳川慶喜は
第15代将軍になってしまうのだ
天下の幕臣になってしまったのだ
これには渋沢栄一は大変困ったのだ
これが人生の第2の転身なのだ。
同志からもう散々な批判を浴び
「渋沢、おまえは何だ、
おまえは裏切り者か」と、
こういうことなのだ。
そこで渋沢は切腹をしなければ
ならないようなところまで
追い詰められるのだ。
面白いと言ったら
おかしいけど、面白いのだ
そんな時にまた降って湧いて、
面白い話が飛び込んできたのだ
徳川慶喜からも非常にその
人物を見込まれたのだ。
何をやらせてもこの人はできるのだ
当時、徳川慶喜の弟、徳川昭武という人が、
将軍慶喜の名代としてフランスに派遣
されることに決まったのだ
昭武はまだ歳は15歳で
将軍名代だから大変な仕事なのだ
歳も若い
それには立派な秘書役が必要なのだ。
それには渋沢栄一が一番適任だということで、
「どうだ渋沢、行ってくれないか」
ということに なり、二つ返事で引き受ける
のだ。
切腹しないで済むからフランスに
行くことになるのだ
それが徳川幕府がなくなる前の年
の話なのだ。
慶応3年の正月
ちょんまげを切り、ざん切り頭にしたのだ。
洋服も用意いたし、そしてフランス語の勉強、
会話の勉強なんかを一生懸命やり、
外国船に乗り、1ヶ月、2ヶ月かかり
フランスに行ったのだ。
その間、食べ物は外国船だから洋食で
一行は洋食に1週間もすれば、みんな
へどが出るように飽きてしまったのだ
「米の飯を食べたい、みそ汁を食べたい、
漬物を食べたい」、
毎日パンや肉なのだ
ところが渋沢栄一はもう全然大丈夫
だったそうで、 すぐ慣れたそうなのだ
この人は適応が早いのだ
こうしてフランスに着いたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる