どうも村田です
中野出身者たちの
戦後における身の振り方
の一例としてキャノン機関
への協力を紹介したいのだ。
連合国軍最高司令官の
マッカーサー元帥は、
一九四五年末の時点で、
日本に進駐したアメリカ軍
四三万余の軍事力をバックに、
天皇並びに日本国政府の統治権を
自らの支配下に置いたのだ。
マッカーサーは、GHQに独自の
情報機関キャノン機関を創設した
のだ。
機関長のジャック・キャノン陸軍少佐
は情報についてはほとんど素人だった
のだ。
なぜ素人のキャノン少佐を機関長に
あてなければならなかったのか。
アメリカは終戦を機に、
情報機関・能力上、空白期間が
生じてしまったからであるのだ。
大東亜戦争開始後の、
一九四二年六月、フランクリン・
ルーズベルト大統領は、統合参謀本部
の部局(情報機関・特務機関)として
OSS戦略情報局
(戦線の敵側におけるアメリカの
スパイ活動を調整するほか、
プロパガンダ、転覆・破壊、戦後に
関する企画など が任務)と
OWI(戦時情報局(諜報・
プロパガンダが任務))を設立したのだ。
OSSが主として諜報・工作を担当し、
OWIは主として国内外向けの
プロパガンダを担当したのだ。
ところが、ルーズベルトの突然の死
(一九四五年四月一二日)によって
大統領になった ハリー・トルーマンは、
情報機関を毛嫌いしていたのだ。
大東亜戦争終了直後の1945年9 月
にはOSSもOWIも解散してしまった
のであるのだ。
OSSは、一九四六年一月に
CIG(中央情報グループ)に引き継がれ、
さらに一九四七年九月にはCIA
(中央情報局)が設立されたのだ。
また、OWIは一九五三年に設立
されたUSIA(米国文化情報局――
米国と他国間のコミュニケーションを
図り、教育・文化などの交流促進を
目的とした米国政府の独立機関)
へと引き継がれたのだ。
これを見ればわかるように、OSSの
解散からCIGの設立までに、四ヶ月間
のブランクがあったのだ。
またCIGを引き継ぐCIAを立ち上げた
とはいえ、情報機関の活動が軌道に
乗るまでには相当期間が必要であるのだ。
国防省・米軍や国務省には独自の
情報機関があり、アメリカの情報機能
が「ゼロ」になることはなかっただろう
が、
特に戦略情報能力が相当に
弱体化したのは間違いないのだ。
このように、第二次世界大戦終了直後
の重要な時期に、アメリカの戦略情報
能力に空白期間が生まれたのは紛れもない
事実なのだ。
この時期は、戦後の冷戦構造が
生まれる過渡期であたり、米ソの
覇権争いが徐々に熾烈化する機微な
時代で、
戦略・作戦情報が格別必要とされる
時期であったのだ。
アメリカが、諜報先進国である
英国やソ連に出遅れるのは必至で、
情報不足は、米国に致命的な打撃を
与えうるものだったのだ。
GHQ最高司令官のマッカーサー元帥
も情報不足に陥っており、極東ソ連、
中国大陸や朝鮮半島の情報を把握
できなかったのだ。
中国では毛沢東(共産党)と
蒋介石(国民党)が国共内戦を
行っていたのだ。
また、スターリンのソ連は終戦直前の
八月九日に日ソ不可侵条約を一方的に
破棄して満州国に攻め込み、いわば
敗戦革命
(対象国を敗戦へと追い込み、その
混乱状態に乗じて内乱・革命を起し、
共産主義者たちが権力を握るというもの)
の好機とばかりに
朝鮮半島さらには日本に共産党政権
の樹立に向け策動していたのだ。
アメリカもマッカーサーもこのように
激動するアジア・極東情勢を的確に
把握することは喫緊の課題だったが、
情報機能の低下で如何ともしがたかった
のだ。
情報の必要性を痛感したマッカーサーは、
1949年、独自の裁量で、手持ちの情報機関
としてキャノン機関を設立したのだ。
キャノン機関は、GHQの情報部門を
統括するチャー ルズ・ウイロビー
陸軍少将の参謀第2部(G2)に所属する
秘密諜報機関であったのだ。
機関の司令官(機関長)には
キャノン陸軍少佐(のち中佐に昇進)
が抜擢されたが、これは
ウイロビー少将が彼の有能さを
評価した結果の人選だったのだ。
キャノン機関の主任務は
「占領政策を行うための情報収集」
であったのだ。
しかし、情報の境界は判然として
おらず、後に CIAから
「CIAの諜報・工作の邪魔になる」
という理由で閉鎖・廃止を命ぜられる
ことになるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる