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豪胆なところがあったんじゃ

どうも村田です

彼ら伊東一派は

高台寺党と呼ばれる

ようになるのだ。

その高台寺党は、

その時は山陵奉行の

戸田氏のお預かりで、

だけれども給料が

きちんと出るわけでは

ないのだ。

そこで、一応名目的には

同志になっているから、

分離はしたけれど、

敵味方ではないという

ことになっているのだ。

基本的には敵味方なのだが、

時々、近藤勇(いさみ)は、

伊東甲子太郎を呼んで自分の

妾宅、

おめかけさんのいる家に

呼んで飯を食わせたり

していたのだ。

それから普請があるから

お金を貸したり、あるいは

あげたりしていたのだ。

近藤勇(いさみ)は、

そういう点では非常に

甘いところがあって、

人情味があるのだ。

伊東の学識は

彼は水戸学をきちんと

勉強しているし、剣術も

できるし、

もちろん近藤勇(いさみ)

も剣術は伊東と同じか、

あるいはそれ以上できた

と思うが、

学問的にはそんなではない

から、そういう意味では

伊東甲子太郎が持っている

学問というものに対しても

尊敬心を持っているし、

今の言葉で言うリスペクト

をしているし、

そういう人間が新撰組の

中にいるということは、

単なる殺りく集団では

なくて

思想集団なのだという

理由にもなったのだ。

残念ながら伊東が出て

いってしまったことに

よって、かなりがっくり

来ていたのだ。

そのために伊東との関係を

保ちたいという気持ちも

あったと思うのだ。

それで時々、伊東を

自分の妾宅に呼んで

食事をしていたりした

のだが、

ある時伊東が近藤を

訪ねてきたのだ。

訪ねてくるということが

分かったから、当然

訪ねてくるよということを

屯所の方に話をするし、

屯所の方では土方歳三も

いるけれど、これ以上、

伊東一派を野放しにというか、

勝手気ままをさせては

いかんだろうという

ことになり、

「この際、伊東を斬ってしまえ」

ということになったのだ。

だんだんそういう感じに

なってきていることは

伊東も分かっていたと

思うけれど、

しかし、何としてでも

用立ててもらいたいと、

要するに経済的に苦しい

ということがあって、

近藤のところへ行って、

そこで1杯飲んで食事をして、

金子(きんす)を頂いて

帰ってきたところが油小路

というところなのだ。

京都の油小路通は今でも

きちんとあるけれど、

そこの南側のところで、

新選組隊士が数人で

取り囲んで、切り刻んで

殺してしまったという

事件があったのだ。

そうして伊東甲子太郎が

殺されたのだ。

殺されたときの言葉は

「奸賊ばら」

だったというふうに

言われているのだ。

その直前だと思うが、

徳川家茂(いえもち)

が大阪城で急死するのだ。

しばらくして、第15代将軍

に徳川慶喜が、最後の将軍

として就任するのだ。

この徳川慶喜はもはや

これまでであるということで、

言ってみれば起死回生の

策だが、

大政奉還に打って出る

わけなのだ。

大政奉還をすれば、とても

政治なんかできない、

朝廷にはできないという

ことで、再び体制を幕府

にやってくれと言ってくる

のではないかというのが

慶喜の読みだったのでは

ないかと思うが実はその

読みが外れて、そして

大政奉還が成ってしまうのだ。

その結果、徳川幕府は

日本の政治の主導権を

失うということになるのだ。

そして、幕府そのものが

なくなるということに

なるのだ。

こういう中でいろいろ

議論をしなくては

いけなくなって、

当時、伏見町奉行所に

陣取っていた新撰組からは

近藤勇(いさみ)が

二条城に行って幕府方と

議論をすることになって

行くのだが、

その時に、部下数人を

連れて伏見奉行所から

二条城に行って帰る途中、

竹田街道と言い、今で言う

京都市の伏見区の深草

なのだ。

場所はここだ、という

場所はまだ決まっていない

のだが、

そこで高台寺党、伊東一派

の残党である高台寺党から

鉄砲で狙撃されるという

事件があったのだ。

鉄砲で撃たれて、撃たれた

ときに弾が肩に当たったのだ。

この時に阿部十郎か

富山弥兵衛、2人のうちの

1人が撃ち、銃は右肩に

命中するのだ。

そのときついていた部下の

1人がとっさにむちで馬の

尻をたたき、

そして近藤は馬にしがみ

ついたまま伏見奉行所に

駆け込んで、そして一命を

助かったということに

なったのだ。

この後近藤勇(いさみ)

を撃った阿部が明治に

なって話したところでは、

この時、篠原泰之進と

加納鷲雄が近藤勇(いさみ)

をやりで突く予定だったのだ。

しかし、残念ながら

この2人は怖気づいて

逃げてしまって、

「仕方なく私と2人で

撃ったのだ」と

いうようなことを言った

ということなのだ。

だから、打ちもらした

のだということかも

しれないのだ。

近藤の右肩の銃創は

貫通銃創で

貫通銃創というのは弾が

通り抜けたものなのだ。

通り抜けないと

盲管銃創というのだが、

盲管銃創は弾を取り

出さなくてはいけない

から大変なのだが、

貫通銃創は骨さえ

砕けていなければ

何とかなるという

ありがたい銃創であり

場所も骨に当たって

いなかったらしいのだ。

腹だとか、こういう

ところだと別だが、

肩で、しかも骨に当たって

いなかったから、その後、

彼は結核の沖田総司と

2人で大阪城に送られ、

後に松本良順で手当てを

受けて、

その後さらに横浜の

幕府の臨時病院にまで

送られて、

フランス人医師の治療を

受けて、そして完全に

全快してしまうのだ。

従って、撃たれながらも

落馬しなかったのはさすが

ではないかと評判になった

のだが、

近藤勇(いさみ)

というのはそういう点で

大変豪胆なところがあった

のだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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