どうも村田です

僧侶がけさを着て、
柏手を打って参拝
するみたいなことが
行われるわけなのだ。
そのやり方に
ほとんどの仏教は別に
異議を唱えなかった
のだけれど、
「神を拝まない」
ということを信条と
している宗派である
浄土真宗がこれに反発して、
「自分たちは三条教則は
教えるけれども、この
大教院でそんな神様の
礼拝はしたくない。だから
大教院から出ていきたい」
ということで、
ここから出ていこうと
する運動をするのだ。
それが明治6年から8年に
かけての運動で、これを
「大教院分離運動」
というのだ。
結論だけ言うと、この
浄土真宗の主張が認められて、
神道と仏教がまたばらばらに
三条教則を説くようになるのだ。
それで、この合同布教の
場所であった大教院も解体
されていくわけなのだ。
この大教院分離運動は、
結構政府に大きなインパクト
を与えるのだ。
なぜかというと、
この大教院分離運動が
起きていた明治6年
というのは、
日本の政治史でいうと、
「征韓論破裂」
と言われるところなのだ。
西郷隆盛を中心としていた
留守政府の人たちが、
中央政府に使節を派遣する
ことを決めていたのだけれど、
それに対して海外を見て
帰ってきた大久保利通とか、
そのほかの木戸孝允という
人たちが、
「朝鮮に手を出したら
戦争になってしまう。
そんなことを日本は今やれない」
ということでそれを止めて、
それで意見の対立から
西郷隆盛以下が薩摩に
帰ってしまい、
明治政府の役人の
中心者が半減したのだ。
これは政府にとっては
すごく危機なのだ。
こういう時ほど、実は
国民を政府のもとに
まとめてほしいではないか。
ところが、神道を中心に
やろうとした結果として
浄土真宗が反発して、
そのごたごたに政府が
巻き込まれるということ
になるわけなのだ。
だから、
「宗教界のこと、特に
教義みたいなことに関わる
ことに手を出すと厄介な
ことになる」という教訓を、
この時、明治政府は学ぶ
のだ。
そして、少し意外かも
しれないのだけれど、
明治初期というと、
神道中心で神道国教化政策
とか言われている時期なので、
何でこの時に浄土真宗の主張
が何で通ったのかと
不思議に思うかもしれない
のだけれど、それには理由
があるのだ。
実は明治政府というのは
薩長の藩閥で成り立って
いるのだけれど、
一方の雄である長州は、
毛利元就以来ずっと
浄土真宗と深い同盟関係に
あるのだ。
幕末も浄土真宗が助けて、
幕末には不利だった長州藩
が京都を追われた時とか、
そういうのを浄土真宗の
寺がかくまったりする
という同盟関係にあるのだ。
一方、薩摩の方はずっと
浄土真宗嫌いで、
「復古神道」といって、
「平田篤胤(あつたね)
流の仏教が大嫌い」
という神道に属しているのだ。
だから、薩摩と長州では
宗教に関して全く立場が
違っていて、
どちらが政府の中で強く
なるかによって主張の
通り方が違うのだ
だから、西郷隆盛が主導権
を握っていた時は神道中心
の布教が行われ、
西郷隆盛が去った後は、
今度は長州の勢力が強く
なって浄土真宗の主張が
通るという形になって
いったのだ。
この浄土真宗が大教院から
出ていく時に主張していた
ことがあるのだ。
それはどんなことを
言ったのかというと、
「自分たちは天皇陛下は
大事に思っています。
だから天皇陛下は大事に
思うので、そのご祖先である
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
も大事に思いますけれども、
『造化三神』とか
いうようなものは、神道家
が勝手に言っている宗教説で
あって、
われわれの浄土真宗という
宗教は全然別の宇宙観を
持っている。
だから2つの宗教を人と
して信じることはできない
ので、皇室は大事にするし、
皇室の祖先である天照大神
(あまてらすおおみかみ)
も尊重するけれども、
神道家が言っているような
神は拝みませんよ」
ということを言い、
それを明治政府が認める
わけなのだ。
つまり神に関して言えば、
「天皇を先祖として大事に
するという先祖崇拝からの
主張を明治政府はOKだ」
と言うわけなのだ。
しかしこれは、当時、
日本にあったあらゆる
宗派はほぼそうで、
キリスト教徒と言えども
先祖を大事にするという
ところまで否定する人たちは
いなかったので、
先祖として神を大事にする
という思想は、これから
明治政府の宗教政策の基本
になっていくのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

