どうも村田です
「児玉は極めて熱烈に、
そして赤心、真心を
開いて開戦のやむを得ぬ
所以を説いた。
勝者たるは、必ずしも
補償しえぬが、このまま
推移すれば、誠に遺憾ながら、
2年後には東亜のロシア側の
兵力が絶対的に優勢となるので、
挑戦されれば勝つ見込みが
ないと見なさなければならぬ
ことを、
許される範囲において説明し、
万死に一生を期して戦う
以外にないことを語って
滂沱(ぼうだ)と涙する
のであった」
涙を流して説得したのだ。
戦うしかないというのだ
「開戦に対する態度を
明らかにせず、どこまでも
自重派の陣営を下らなかった
渋沢であるが」
渋沢さんは正直、戦争に
反対だったのだ。
なぜかというと、勝算が
ないからなのだ
世界一の陸軍国ロシアと
戦って勝てると思った人は
いないのだ
それほど難しい戦いで
選択肢は戦うしかなかったのだ
戦わずしても亡国の運命
が待ち受けていたのだ
「渋沢ではあるが、
児玉将軍の熱誠に動かされた
真心に動かされた。
ことに内相、内務大臣の
顕職を投げ打って参謀次長
となったその事実に考えても、
帝国の、日本の今や亡国の
分岐点にあることが了解
されるので」、
こう言ったのだ
「『児玉さん、私も一兵卒
として働きましょう。何事
でも直ちに命令してください。
私にできることでも、
できぬことでも必ず
完璧に務めます』
と児玉将軍の両手を渋沢氏
は力強く握ったのだ。
言葉なく渋沢氏の両手を
児玉将軍も力強く握って、
熱涙をぬぐえなかった」
児玉が必死に
「日露戦争は避けられない。
選択肢は1つしかないんだ。
しかし、戦って勝つ見込みが
薄いんだ」、
それが
「万死に一生を期して」
ということなのだ
普通は九死に一生と
言うのだ。
万死に一生という言葉は
言わないのだ
1万回戦っても勝つ見込みが
少ないということなのだ
「でも戦わざるを得ない。
だから渋沢閣下、どうか
協力してください」と、
国債購入に渋沢さんが
うんと言ってくれないと、
渋沢が了承してくれないと、
どうにもならないわけなのだ
それがよく分かったのだ
渋沢は涙を奮っての要請に
心から共感、共鳴して、
「一兵卒として働く」
というのは、一兵隊として
働くという意味なのだ
だから
「何でも命令してください」
と渋沢さんは、
「児玉さん、私にできる
ことでも、できないこと
でも必ずやります」
素晴らしい言葉なのだ。
これを読んでいる時
少し涙が出たのだ。
日露戦争がどんなに大変な
国家存亡をかけた戦いで
あったかが、戦後の学校の
歴史では教えられないのだ
日露戦争なんかは全然
評価低いからなのだ
戦争に反対した人がいた
のだと、そちらばかり言う
のだから、とんでもないのだ
戦争しなくても日本は
欧米列強によって必ず
植民地にされたのだ。
だから当時の日本人は
愛国心があったから
九死ではない、
万死に一生をかけて闘い
の道を選んだのだ
そして挙国一致して戦い
辛うじて勝つことができた
のだ
そういったことがよく
理解できる渋沢と児玉の
涙の逸話なのだ
これは全然知られてないのだ。
数多い渋沢の伝記でもそれを
紹介しているのはないのだ。
さて、渋沢さんが77歳の
喜寿を迎えた時、一切、
今までのあらゆる公の
経済的な仕事から手を
引いたのだ。
そして、社会公共福祉事業に
最後の生涯を捧げたのだ
肩書きは100ぐらいあるのだが
それを全部返上して、
「もう十分私はやらせて
いただきました」と、
当時の77歳は、今で言うと
90だから、もうあの世に
行ってもいい歳なのだ
だから、最晩年は、
「私はこういう仕事
をさせていただきます。
福祉事業に全力をあげます」
と、
それから15年間、そちらも
全力を尽くして、関係した
事業は約600に及んだのだ
正副総裁、正副会長、
あるいは創設者、名前
だけではないのだ。
名目だけではないのだ
実質的な中心者として、
不幸な人、恵まれない人、
病気の人、親がいない、
当時孤児などは結構いたから、
そういう人のために全力を
尽くしたのだ
稼いだお金をボンボン
出したのだ
大体、社会公共福祉事業を
やる人達は、渋沢さんを
当てにするのだ
渋沢さんに長になってもらえば、
何よりも渋沢さんがお金を
出してくれるのだ。
こういう事業は寄付がないと
やれないのだ
渋沢さんがお金を出して
くれたら、その他大勢、
みんな右にならえで出して
くれるのだ。
そういうことで、
渋沢さんは世のため、
人のためになる、
そういう仕事には全力を
挙げて協力したのだ
これだけでも渋沢さんは
後世に残る仕事をしたと
思うのだ
91歳の渋沢さんは、翌年
亡くなるのだが、その時に
老衰して、病気で寝ていた
のだ
そこに社会事業家の
代表20人が渋沢さんに
面会を求めてきたのだ。
昭和5年
昭和5年の、東北地方に
大冷害が起こった時なのだ
食べるものがなくなって
しまって、自分のかわいい
娘を遊郭に身売りさせる、
そんな悲劇が起こった
時代なのだ
その代表者たちが社会事業者、
社会事業家の代表が渋沢さん
に助けを求めてやってきたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる