どうも村田です

戦局の転換が意外に
早く来てしまうのだ。
すなわち、昭和17年
6月20日のミッドウエー
沖における日本海軍の
大敗北なのだ。
さらに、同じ17年の
8月から翌年の1月まで
続いた
ガダルカナル島での
陸上戦、これも日本は
敗北しているのだ。
完全な敗北なのだ。
これ以降、すなわち
昭和18年11月以降、
米軍は戦局の有利な
転換を完全に把握していて
勝利への道を望み、
進み始めたのだから、
アメリカ側は停戦の
必要は全くないのだ。
従って、申し入れの
機会を捉えようも
ないのだ。
昭和18年の4月18日に、
米軍は日本軍の暗号
解読作業の結果として、
山本五十六連合艦隊
司令長官の搭乗機を
ブーゲンビル島の上空で
撃墜するという
戦果を挙げて、士気が
大いに上がっているのだ
続いて、5月29日に
アリューシャン列島沖
のアッツ島で守備隊を
全滅させて、これを
奪い返しているのだ。
日本側はこの時初めて
全員玉砕という表現を
用いて、
アッツ島守備隊の全滅を
認めたのだ。
この年の10月には、
国内では文化系大学生の
徴兵猶予の制度は停止
するということになり、
12月には学徒兵の
第1陣が軍隊に入ったのだ。
いわゆる学徒出陣が
1218年の末に始まるのだ。
昭和18年というのが、
米国軍に対する日本軍の
敗北の体制がはっきりと
してきた転換の年なのだ。
ただ、ここで少しつけ
加えておきたいのは、
11月5日に、
東京で大東亜会議という
意義深い国際会議が開かれる、
そういう記念すべき年でも
あったということなのだ。
この東京での大東亜会議に
参集したのは、主催国である
日本は当然であるが、
満州国、それから
汪精衛(おう・せいえい)
政権、
汪兆銘(おう・ちょうめい)
のことであるが、
汪精衛(おう・せいえい)の
中華民国、
それから日本の支援で
独立したフィリピン、
ラウレル大統領の率いて
いるフィリピンなのだ。
それからタイ国、
ビルマの首相は
バー・モウという人
なのだ。
それから自由インド仮政府
のチャンドラ・ボース等、
東アジアの7つの国と地域の
代表が東京で一堂に会して、
そして会議を開く、
その結果を昭和16年の8月、
米英共同宣言に対する
ごとき様式の
大東亜共同宣言を採択
して翌11月の6日に発表
するのだ。
昭和16年の8月には
米英共同の大西洋憲章
の発表があったのだ。
昭和18年の11月に
大東亜共同宣言が発表
されたわけなのだ。
この会議で議長を務めた
のは、当然ながら
東條英機総理大臣なのだ。
ここで第二次近衛内閣の
陸軍大臣として入閣する
まで、至って
地味な経歴をたどって
きた東條英機が思いを
かけて、
東半球を代表する
国際会議の表舞台で
晴れの主役を務める
という一世一代の名声を
はせる場だったのだ。
しかして、この晴れの
場が東條の生涯の絶頂
であり、最後の世界史的
役割であったのだ。
翌19年の2月に、彼は
総理大臣、陸軍大臣にして
陸軍参謀総長を兼任する
という非常に大胆な人事を
断行するのだ。
そして、嶋田繁太郎
海軍大臣に、軍令部
総長を兼任させるという
陸軍のそれと同じ体制を
海軍にも取らしめたのだ。
これは統帥部と政府とを
一体化して緊急事態に
対処するという、
いわば緊急非常事態の
認識の表れだったのだが、
ともかく東條がその
独裁体制を強化する
姿勢を露骨にしたものだ
という誤解を受けて、
評判が悪かったのだ。
「おやおや、こんなことが
起こるのかな。それで
いいのかな」
という不思議な思いを
したことがあるが、
一般社会においても、
これはいきすぎでは
ないかということで、
一種の倒閣運動が起こる
のだ。
もっとも、この人事体制
の異様なのに驚いて
倒閣運動が起こるという
ところが、
東條の独裁というのが、
ナチスドイツや現在の
中共政権とか北朝鮮政権
とは本質的に異なる
立憲政治の枠内にあった
ということの表れでも
あるのだ。
戦況の方を見ると、
昭和19年の7月に
サイパン島が失陥するのだ。
これは絶対国防圏の崩壊
を意味するということが
誰の目にも分かったのだ。
つまり、サイパン島を
取られれば、そこを
基地としてアメリカの
空軍部隊が日本本土に
空襲を加えることが
可能になるだろうという、
そういう予想なのだ。
それは実際に起こった
わけでこうなると、
内閣が交代すべきだ
というのは誰が見ても
当然のことになるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

