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瞬間言われるんじゃ

どうも村田です

仮面はもちろん

息苦しいのだ。

なぜならば、演技を

しているからなのだ。

息苦しいということ

を彼らはどう考えるか

というと、

社会的抑圧だと

感じるわけなのだ。

抑圧だと感じた瞬間

にどうなるかというと、

不自然だとなった瞬間、

仮面が不自然になった

瞬間に、

こぼれ落ちる内面の

方が自然だという

感覚になるのだ。

その感覚が実は

近代文学を生むのだ。

つまり仮面があるから、

「仮面からこぼれ落ちた、

社会からこぼれ落ちた

内面を告白しなければ、

私はやっていけない。

そっちの方に真実が

あるんだから」

という形で文学が出て

くるのだ。

だから文学は必ず

「自由=不定形で孤独

な内面を告白する」

という話から出るのだ。

不定形で孤独な内面

の告白が言文一致小説

を導き出すことにも

なるのだ。

なぜかというと、

型からこぼれ落ちた

のだ。

型はもうないのだ

型はないし、社会的な

仮面もなくなった

ということは、私の

孤独なつぶやき、

独り言、

これはもちろん

言文一致、もっと

言うと話し言葉で

出しているわけだから、

私の孤独なつぶやき、

独り言を文章にしない

と自己表現にならない

という形で

言文一致小説が

始まるのだ。

そうするとどう

なるかというと、

この言文一致小説を

読むと、

型からこぼれ落ちた

内面の方が自然だと

思った時に、仮面が

不自然になるのだ。

そうするとどうなるか

批評性が生まれるのだ。

つまり、最初は

仮面を被ったのだ。

仮面を被ったから

こぼれ落ちたのだ。

こぼれ落ちたのだけれど、

そちらこそが実は

本当だとなった瞬間、

その本当のものから嘘の、

つまり制度的な概念、

簡単に言うと

政治経済学問なんていう

背伸びをしたような

システムを批判しよう

という話になるわけ

なのだ。

だから文学的な反省

こそが、実のところ

批評意識を高めていく

のだ。

そうすると、近代文学

がなぜこの国でここまで、

最近は全然だけれど、

少なくとも1970年代まで、

近代文学者こそが

この国のある種思想的、

そしてカルチャー的

ヒーローだったのか。

夏目漱石を知らない

人はいないだろう。

森鴎外(おうがい)

を知らない人はいない

だろう。

だけれど首相を

知らない人はたくさん

いるのだ。

石破なんかすぐ

忘れられると思うのだ

けれど、

夏目漱石を知って

いれば首相は知ら

なくてもいいのだ。

なぜかというと、

彼らこそが近代日本

の最前線だったから

なのだ。

つまり、近代社会から

こぼれ落ち、こぼれ

落ちることによって

批判するから、

その循環を生きるから

社会の最先端にいる

という定義なのだ。

だから彼らこそが

批評性を持つのだ。

だから日本近代文学史

というのはそのままして、

日本近代史になって

しまうのだ。

しかし1970年代まで

なのだ。

なぜか

つまり、この構造が

生きられているのが

1970年代までだからなのだ。

田舎があって、その

田舎から出てきて、

その出てきたことによる

ショックによって、

ものすごく仮面を被る

ということが起こった

ので、

おそらく1970年代が

一番トップだと思う

のだ。

トップというか、

一番その流れが上に

来ていた時だと思う

のだ。

だから故郷、あるいは

故郷から離れた自分の

内面を語らなければ

いけないと、

ここまで来るわけだが、

もう少し日本近代史に

即して見ておくのだ。

今言ったことが

分かれば、この話も

すぐに分かると思うのだ。

つまりゲマインシャフト、

地域共同体があった時に、

そこから抜け出るわけ

なのだ。

抜け出た時に人々は

個人、あるいはもう少し

言い方を変えると国民と

言ったのだ。

だって、抜け出る

までは藩の中にいる

わけで

長州藩とか、あるいは

薩摩藩の誰かなのだ。

それが東京に来た

瞬間に国民と言われる

のだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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