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問題なんじゃ

どうも村田です

北畠親房と

『神皇正統記』

の方に話を合わせ

ると、

実際に親房がいって

いるように、権力は

階層構造になっているが、

天皇であっても

世俗権力であっても、

それぞれが

徳を持たなければ

いけないということ

なのだ。

正直の徳ということ

なのだ。

実際、北条泰時が

つくった体制が

その後の日本の組織論

を決めたとされている

のだ。

天皇は京都にいるが、

実権(現実の政治力)

は関東にある鎌倉幕府

が握っているのだ。

そして鎌倉幕府の将軍

よりも、それを補佐

する執権の方が力を

持っているのだ。

徳川幕府にしても

そうだが、将軍より

も老中が実権を

持っていたのだ。

日本の官僚制を

みても、現場にいる

課長補佐ぐらいの

立場の人が一番優秀で、

上に行けば行くほど

「鏡」の役割を

しているというか、

色々な部下の意見を

聞いて、

「責任は俺がとるから

頑張ってやってくれよ!」

という構図になっている

のだ。

トップダウンと

ボトムアップの

中間くらいのほうが、

日本の組織が上手く

いく条件となる

のではないだろうか。

アメリカ型の

トップダウン、つまり

リーダーがひたすら

命令していくやり方だと、

日本の組織は死ぬ

というか、上手く

機能しないのだ。

そういう意味では

欧米型の主権モデル、

すなわちある一者が

責任を負って決断する

というやり方は、

日本人には合わない

というのが印象なのだ。

主権という概念は

やはり超越的な神が

前提にあるのだ。

主にヨーロッパでは、

王権神授説のような

ものがあって、

宗教と政治の関係性

が長い歴史の中で

積み上げられてきたのだ。

ところが日本の場合、

近代に入って

「暗中模索」

というか、

大日本帝国憲法を

一応はつくったものの、

そこに至るまでの歴史が

複雑なものがあり

久米邦武(くめくにたけ)

の『米欧回覧実記』

という本を読んでいるが、

岩倉具視(いわくらともみ)

伊藤博文(いとうひろぶみ)

らがヨーロッパに

いった際

「西洋人のバックボーン

にはキリスト教があるが、

日本人のそれにあたる

ものは何だろう」

と考えるわけなのだ。

日本における

正統(しょうとう)

とは何だろう。

国民や文化の

バックボーンは

何だろうと彼らは

必死になって探し

出そうとしたのだ。

伊藤博文は

「この際、日本も

キリスト教にして

しまえばいいのでは

ないか」

といったという

説があるくらいなのだ。

もちろんそれは無理

な話だが、儒教や仏教を

「背骨」にしよう

としても、

「どれだけの人が

『四書五経』

を読んでいるのか」

「仏教の坊主は

みな退廃している

じゃないか」

ということで話は

纏まらないわけなのだ。

日本人の

「背骨」

を見つけるために

喧喧囂囂

(けんけんごうごう) と

「宗教論争」を

行なうのだ。

それで最終的に、

天皇を持ってこよう

ということになって、

丸山氏も指摘しているが、

天皇に対してある種

キリスト教的な原理を

負わせるという形で、

神聖さをつくり

出していくのだ。

一言でいえば天皇を

現人神(あらひとがみ)

にしてしまうのだ。

本来であれば、

天皇の上にある種の

根源神という概念が

あって然るべきところを、

天皇=神様と捉えて

しまったのだ。

ここに近代日本の

最も大きな問題が

含まれていると

思うのだ。

北畠親房からすると、

それは大問題なのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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