Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

興味深いんじゃ

どうも村田です

昭和通商

昭和通商の前身は泰平組合

であるのだ。

泰平組合は一九〇八年六月に

三井物産、大倉商事、 高田商会の

三社が共同出資して設立したもので、

主に余剰となった軍の旧式小銃・

火砲の払い下げを受けて中国・

タイ等に輸出する事を目的とした

組合であったのだ。


第一次大戦では同組合を通じて

連合国のイギリス・ロシアにも

一〇〇万丁を越える小銃を輸出し

莫大な収益を得たといわれている

のだ。

しかし大戦が終了すると同組合の

輸出は伸び悩みはじめ、昭和一四年

には高田商会が抜け、

代わって三菱商事が新たに加入して

昭和通商が設立されたのだ。


昭和通商の設立は、陸軍中野学校の

創設に関わった陸軍省軍事課長の

岩畔豪雄大佐の主導によるもの

だったのだ。

そんな経緯で、業務上の指導・

監督権や人事権は陸軍省が一手に

握 り、陸軍の施策に準じて商行為を

行う半官半民的な商社であったのだ。

一時期、北米はニュー ヨーク、

南米はペルーのリマとボリビア、

ヨーロッパではベルリン、ローマ

をはじめ

満州、 中国各地、南方諸地域に

わたって支店や出張所を持ち、

正社員三千人、現地臨時雇用を

含めると六千人にも及んだ巨大組織

であったのだ。


昭和通商は、表向きは民間の商社

として活動をしたが、その実態は

駐在員(多くは予備役の軍人)が

現地で諜報活動を行った他、

朝鮮・満洲・蒙疆で生産された

阿片を中国市場 に持ち込み、

里見甫らの宏済善堂を通じて換金し、

戦争遂行に必要な戦略物資の調達に

あたるなど、様々な裏の活動を

行っていたのだ

参謀本部が民間人と接触する際の

フロント企業としても機能したのだ。

その一例はこうなのだ。

マレー作戦に際し、現地に精通した

諜報員を求めていた参謀本部は、

日本人でありしかもマレー半島を

股にかけて活動する谷豊(ハリマオ)

と彼の率いる盗賊団に目をつけ、

彼らを諜報組織に引き込もうとしたのだ。

その任務を請け負ったのが、

満州国の警察官で諜報員・

神本【かもと】利男であったのだ。

一九四一年一月下旬、昭和通商嘱託

(実質的な諜報員)としてバンコクに

赴いた神本は、

軍から用意された二五バーツの

保釈金をタイ警察に支払い、

獄中の谷を釈放してもらった後、

彼に対して日本陸軍へ協力する

よう説得を試みたのだ。

当初、 マレー人として生きていく事

を望んでいた谷は軍への協力を拒んだが、

マレーの習慣を学び、

ゆくゆくはイスラムに帰依したい

という神本の熱意にほだされて、

ついに軍への協力を引き受ける事

となったのだ。

なお、神本利男については、

「マレーの虎〝ハリマオ〟

と神本利男」で詳述するのだ。


昭和通商は、駐在武官が機密情報を

陸軍省に送る際に、在外公館

(外務省ルート)の通信(公電)を

通さずに

同社の無電を用いて暗号文を打電

する「昭和通商依頼電」など、

日本陸軍独自の通信ルートとしても

活用されたのだ。

F機関

F機関とは、一九四一年九月、

大東亜戦争における南方作戦の

ために参謀本部の命によって

藤原岩市少佐がつくった特務機関

であるのだ。

藤原少佐のFに加えて

Friendship」 「Freedom

の頭文字からF機関と名づけ

られたのだ。

F機関は陸軍中野学校の卒業生を

含む小規模の組織で、増強を

受けた後でも三十人程度だったのだ。

そんな小規模の特務機関であったが、

南方軍やマレー作戦を担当する

山下奉文陸軍中将麾下の第二五軍

からは高い期待が 寄せられ、

藤原はかなり幅広い任務を

与えられたのだ。

南方作戦を容易にするために

英蘭などの植民地支配下にある

マレー人、インド人、華僑等を

味方につけること(宣撫工作)も

重要任務の一つだったのだ。

そのために、イギリス領マレーに

渡った後に盗賊として有名だった

日本人青年の谷豊を諜報要員として

リクルートしたのだ。

その経緯については、「昭和通商」

で触れたのだ。

谷は、 期待に応えてマレー作戦で

大きな働きをするが、その最中に

マラリアに感染し病死したのだ。

谷は死後、「マレーのハリマオ」

として日本で英雄視されることに

なるのだ。

藤原はもともと情報畑の人間では

なかったのだ。

一九三九年、服部卓四郎によって

中国から呼ばれて参謀本部入りし、

作戦参謀となる予定だったが、

当時藤原がチフスを患っていた

ことで、そのころ皇族が在籍

していた作戦課ではまずい

ということになったのだ。

それで謀略・ 宣伝を担当する

第八課に配属され、参謀本部で

内々に進められている南方作戦

における工作を内示(内命)されたのだ。

藤原は、陸軍中野学校の教官も

兼務しながら、与えられた

工作任務について分析・研究

していたが、

南方作戦の実施が参謀本部の

中で本決まりになってくると、

第八課は現地(南方地域)における

宣伝戦について調査・研究・企画

することを藤原に命じたのだ。

藤原は嘱託の民間人十数名を

集めて調査研究を開始したのだ。

日本における現地情報の不足に

直面した藤原は、自ら身分を

民間人に偽装で現地に入って

情報・資料を集めたのだ。

その結果、藤原は、 南方作戦に

民間の作家、記者、芸術家などを

連れて行って情報・思想戦に

報道班員という身分で活用する

ことを提案し、参謀本部に承認

されたのだ。

開戦以降、藤原は、大東亜共栄の

夢を愚直に信じ、F機関を率いて

マレー、スマトラの民族解放工作に

奔走したのだ。

日本軍は破竹の勢いでマレーを

進撃する中で、イギリス軍の

一大隊がマレー半島西岸の街

アロールスター付近で退路を絶たれ、

孤立していたのだ。

その大半 はインド人だったのだ。

藤原は一切武器を持たずに大隊を

訪れ、投降を勧め、約二〇〇の

インド投降兵の身柄を預かる

ことに成功したのだ。

その大隊の中にいた中隊長の

モーハン・シン大尉の主導に

よってインド国民軍

(Indian National Army、略号:INA)

を創設したのだ。

後にその数は五万人近くに

達したのだ。

藤原とモーハン・シン大尉は

信頼しあう仲になったのだ。

藤原がインド人兵の心を捉えた

経緯は、インド兵捕虜とF機関の

合同食事会の感想ついて、

モーハン・シン大尉が述べた

言葉から窺うことが出来るのだ。

〈戦勝軍の日本軍参謀が、投降した

ばかりの敗残のインド兵捕虜、それも

下士官、兵まで加えて、同じ食事で

インド料理の会食をするなどという

ことは、英軍の中では夢想だに

できなかったことである。(中略)

藤原少佐の、この勝者、敗者をこえた、

民族の相違をこえた、温かい催しこそ

はインド兵一同の感激であり、日本の

インドに対する心情の千万言にまさる

実証である〉

F機関の活躍については、藤原自身が

後に著した

『F機関‐アジア解放を夢みた特務

機関長の手記』(バジリコ )に詳しいのだ。

同書には、F機関工作の成功の秘密を

問う英情報機 関の大佐に対し、

藤原少佐が

「現地人に対する、敵味方、民族の

相違を越えた愛情と誠意」

と答える場面があるのだ。

藤原自身が中野学校の教官を務めた

ことと、F機関の中に多くの

中野卒業生がいたことを思えば、

マレー作戦において、F機関が

期せずして「謀略は誠なり」という

中野学校精神を実践したことは

興味深いのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

Follow Me