どうも村田です

このごろ出てきたのだ。
少し見ていくのだ。
愛宕山の威徳院という
所で連歌会が催された
というのは事実なのだ。
その時の連歌も歌も
残っているのだ。
連歌だから、十何人かが
次々に集まって、100首
歌うのだ
けれど、最初に句を歌った
人の句を受けて、次の人が
しゃれた句を詠むのだ。
それを受けて、また次の人が
しゃれた句を詠むという、
そうやって連ねていくのを
連歌と言い、
公家の社会にも武家の
社会にもはやっていたのだ。
光秀は大変教養があったから、
この愛宕山の連歌会に
京都のうまい公家衆たちと
一緒に出ていたのだ。
その発句、一番最初の句を
歌ったのが明智光秀だった
のだが、有名な句なのだ。
ご存知だろうか。
「愛宕山百韻」
と言うのだ。
「時は今天が下しる五月かな」。
これは「あめが下しる」
という意味なのだ。
「雨が降っている5月だな」
というふうに単純に歌っているが、
実はこれは中身が、「時は」
というのは「土岐は」なのだ。
「自分の主家の土岐氏が、
今こそ天下人になって
下知する5月だぞ」と、
こう歌っているのだ。
そういう隠した意味が
あるのだろうというふうに
言われているのだ。
言われれば、
「その通りだな」
と思うのだ。
それを受けて、
「水上まさる庭の夏山」、
行祐なのだ。
それから、
「花落つる池の流れをせきとめて」。
この句も、
「何を言っているんだろう」
というような内容なのだが、
これは里村紹巴の歌なのだ。
実は、この本能寺の変の
黒幕の1人だと言われて
いるのだ。
補足すると、
「花落つる池の流れをせきとめて」、
何か思わせぶりな句で
というふうに続いていきながら、
最後にこれを取り上げたのが、
『惟任退治記(これとうたいじき)』
なのだ。
これは明智光秀を退治した時の
記録という、秀吉が書かせた
本の1節なのだ。
「時は今天(あめ)が
下しる五月かな」、
そうやって言われれば、
分かるのだ
和歌や俳句は全然ダメだが、
それでも分かるのだ。
この時に、京都のラジオ
放送局のような、
おしゃべり大好きな公家
たちがざっと出ている中で、
最高の軍司令官だった
明智光秀が、自分がやろう
としていることをばらす
ような句を本当に歌うの
だろうか
という疑問の声も出ていた
のを見たのだ。
その通りだなと思うのだ。
だから、
「この辺も少し後付けした
ような内容だな」と今思って
いるのだ。
どうだろうか。
これは事実だから、
ドラマではやはりきちんと
踏んでいたのだ。
それから、これは丹波亀山
から京都本能寺までの
道筋の地図なのだ。
これを見ると、亀山から
本能寺までの山陰道を通って
行くのだが、全部で13キロ
くらい高低があるのだ。
ここで分かれ道で
これが老ノ坂という所で、
ここから中国道に分かれて
いくのだ。
ここで本来は中国道に入って、
備中高松攻めをしている
秀吉の援軍に行くはずだった
のだ。
ところが、ドラマではよく
ここで光秀が全軍を止めて、
「敵は中国ではない。
敵は本能寺にあり」
という有名な言葉を発して、
「京都に向かうぞ」
ということを言ってるのだ。
ここで言っているのだが、
ここに行ってみると
どんな所か、それから、もう
1個のここなのだ。
桂川が流れているのだ。
桂川は当時渡るのが大変な
川だったのだ。
それを軍装した人馬が、
ここを渡って京都に入って
いったのだ。
6月だから、汗みどろの
どろんこで。この2カ所が
少し不思議な点なのだが、
この老ノ坂の所を見てみると
こんなふうになっているのだ。
これは旧道の方で
広い方は車が走っているが、
旧道は車が1台すれすれ通る
ぐらいの道なのだ。
当時、「人馬の通る道は
もう少し狭かったんじゃないか」
と言われていて、
この奥に行くと、当時のまま
の道も確かに残っていたようだが、
その時行ってないがもっと細い
のだ。
そうすると一回、一こま
戻すと
細い道を亀山から1万3,000の
軍勢でこれが京都本能寺に
向かうのだ。全長13キロなのだ。
前の兵と次の自分の兵の間で
やりを持つし、弓を持っている、
馬もいるだろう。
平均1メートルを空けたとして、
2列で通れればいいが、とても
2列で通れるような所ではないのだ。
1列で行くと、13キロになるのだ。
これは、伸びると先頭の兵が
本能寺に到達した時に、
最後尾の兵はまだ亀山城にいる
という状態なのだ。
実際はそんなアホことは
ないのだろうが、つまり
ここで全軍を止めて指示を
するということはまずあり得ない
のだ。
これはもう捨てなければ
いけないのだ。
それから、桂川を渡るという
のはどういうことなのかという
ことを少し考えておいて
いただきたいのだ。
このようなこともあって、
老ノ坂の所は今でも非常に
狭い所なのだ
それから、京都の市内図で
本能寺というのは、実は昔から
3カ所あって、
信長が泊まっていた本能寺だが、
応仁の乱の時まであった、
もともとの本能寺なのだ。
ここに堀川が流れているのだが、
応仁の乱は堀川を境に西と東に
分かれて戦ったのだ。
その時、本能寺は、この堀川に
近かったものだから、戦火に
まみれて焼けてしまったのだ。
その後、堀川の東に移って、
今の信長が泊まった本能寺
なのだ。
その信長が泊まった本能寺も
焼けたものだから、これが
現在の本能寺の位置なのだ。
国際通り沿いにあり
3か所あるのだ。
真ん中の本能寺がその時で、
もう少し北側を見ると、
二条御所というのがあるのだ
そのすぐ近くに妙覚寺があり
信忠はここにいたのだ。
ここから二条御所に行き
本当にここを狙ったという
ことなのだ。
この細かい所まで知っている
光秀だからこそできた本能寺の
変なのだ。
この辺の地形的なものを
少し見ておいてほしいのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

