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確信しとんじゃ

どうも村田です

今日からは

今、陸軍中野学校が注目される

のだろうか?という観点から

勉強したいと思うのだ

戦後のアジア諸国の独立に大きく貢献

した陸軍中野卒業生が関わった当時の

日本のインテリジェンスのレベルは、

世界のトップクラスだったのだ

陸軍中野学校は、

一九三八年から一九四五年の

わずか七年余りの短い期間しか

存在しなかったが、

極論すれば、第二次世界大戦後の

世界覇権構造をひっくり返す

ほどの大きな力を

発揮したと、考えているのだ。

同校を卒業した約二五〇〇名の

少数精鋭だけで、大英帝国の

植民地を次々に独立させて、

パスク・ブリタニカという

イギリス支配の世界を刷新したのだ。

中野卒業生は、今日の

パスク・ アメリカーナ

(アメリカ覇権の世界)

をもたらした最大の功労者だと

言えるのではないか。

歴史的に見ればこのような重要な

役割を果たしたにもかかわらず、

陸軍中野学校の実態は謎に

包まれているのだ。

卒業生は、年少の方でさえも既に

一〇〇歳を超え、その多くは

他界されているのだ。

現在、陸軍中野学校のいわば

「語り部」の大役を果たされている

同校第三期乙種 学生の

牟田照雄先生は一九二二年一月生まれで、

間もなく一〇〇歳を迎えられるのだ。

牟田先生は陸軍中野学校について

巻末の特別寄稿

『陸軍中野学校の思い出と日本の

今後取るべき 秘密戦体制』

の中で陸軍中野学校について

次のように述べられているのだ。

中野は「スパイ学校」ではなく

「秘密戦士養成所」

である。

秘密戦とは武力戦以外の全 ての

戦争を指す。「知恵の戦い」、

「見えざる戦い」であり、

中野では

「諜報・宣伝・謀略・防諜」と

分類するのだ。

後に武力戦である大東亜戦争中

「遊撃戦」も含めた〉

陸軍中野学校については、それを

理解・解明するための資料や証言が

極端に少ないのだ。

『私は吉田茂のスパイだった

―ある謀報員の手記 』

(東輝次著、光人社)によれば、

中野学校などに関する膨大な資料は、

終戦とともにすべて焼却されたという

のだ。

資料を燃やすのに4日間も

かかったことから、その分量の

多さが推察されるのだ。

また、

「中野は語らず」という

不文律があり、生き残った

中野卒業生たちも固く口を

閉ざしたままだったのだ。

陸軍中野学校は、一九三八年の

設立当初は

「後方勤務要員養成所」

と呼ばれていたのだ。

これも秘密保持のためであり、

決して諜報の学校だと悟られない

ように配慮されていたのだ。

一 年後の一九三九年に

中野囲町(現在の中野四丁目)の

旧中野電信隊跡に移転したのだ。

一九四 〇年には

「陸軍中野学校」と改名したが、

学校の門には

「陸軍省分室」「陸軍通信研究所」

という門札を掲げ、

「東部三三部隊」とも偽称したと

いうのだ。

ちなみに陸軍中野学校の跡地には、

二〇〇一年まで警察大学校が置かれて

いたが、

現在は「中野四季の都市」

と呼ばれる再開発地となり、

敷地内にはオフィスビル、防災公園、

大学キャンパスなどができ、今後も

再開発がなされる予定であるのだ。

秘密保持のため、中野学校の

関係者はみな民間人のように振る舞い、

軍人の素振りを見 せないようにしていた

のだ。

長髪で背広を着、言葉遣いも

一般社会人のように気を配ったのだ。

さらに自分の正体は家族にも秘密にし、

手紙の宛先も「陸軍省兵務局防衛課気付」

としていたのだ。

学生の宿舎は任務別に区分され、

互いの往来は禁止されていたのだ。

スパイの組織では「芋づる式」

に逮捕されるのを防止するため、

スパイ同士が互いに接触することを

極力回避することが鉄則であるのだ。

このように秘密保持が徹底されていた

ために、現在に至るまで残っている

資料・証言は乏しいのだ。

陸軍中野学校の歴史はまさに

消滅の危機にあるのだ。

世界でも類を見ない諜報員養成学校

の実態を闇に葬り去ることなく、

後世に残すことが重要であり、

今こそ中野学校の本質に迫る努力が

必要であるのだ。

それが今後の日本の情報機能強化、

ひいては安全保障の強化に役立つと

確信しているのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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