どうも村田です

石原莞爾(かんじ)
の生い立ちを見て
いくのだ。
彼は1889年、山形県の
鶴岡市に生まれたのだ。
ヒトラーと同い年で
13歳で仙台幼年学校に
入学し、
20歳で陸軍士官学校を
卒業して軍人生活の
スタートを切ったのだ
石原の勉強方法は
すこぶる変わっており
試験の前には試験勉強
らしいものは
ほとんどせず、自習時間
に教材にざっと目を通す
だけで、
当時の試験は論文の形式
が多かったのだが、
石原莞爾(かんじ)の
鋭い観察力は問題の要点を
完璧に把握しているから、
論文の時は問題の要旨を
できるだけ短い文章で
簡潔に書いて、時間が
ないときはただ結論を
書くだけなのだ。
それでいて、採点担当者
が思わず舌を巻いて
うなるほどの理路整然
とした完璧な解答だった
のだ。
それでは彼は有り余る
ほどの時間を何に
費やしておったかというと、
学校の勉強とは関係のない
戦史、政治、思想、哲学
などの研究に没頭していた
のだ。
自習時間以外は試験勉強
なんかせずに日曜日や
休日は図書館に通って、
自分が興味と関心を抱いた
分野の書物を片っ端から
読みあさったのだ。
後に彼は、名を成すことに
なったナポレオンの研究
なんかも、
すでに幼年学校のころに
その基礎が出来上がって
いたくらいなのだ。
石原莞爾(かんじ)が
ドイツに留学したとき、
第一次世界大戦の名将や
一流の軍事学者と議論して
一歩も引けをとらなかった
のも、幼年学校から陸軍
士官学校にかけての彼独自の
猛勉強のおかげなのだ。
石原莞爾(かんじ)の
人の意表を突く柔軟な
発想と、機略縦横の
知性のきらめき、
一瞬にして物事の本質を
見抜く鋭い頭脳、辛辣な
風刺や批判は当時から
有名だったのだ。
その存在はひときわ
目立っていてなかなかの
人気者だったが、
周囲との協調性に欠けて
いたのだ。
このような人間は、
他人に理解されるのを
よしとせず、
誰が何と言おうと
あくまでもわが道を行く
タイプなのだ。
心底理解しあえる数
少ない親友はできても、
多くの人からは誤解
されて浮き上がって
しまうのだ。
石原莞爾(かんじ)の
生涯は孤独だったのだ。
彼の性格は、天才に
ありがちな狷介(けんかい)
というのだろうか、
見方によっては偏狭と
映ることもあるだろう。
石原莞爾(かんじ)は
陸軍大学を2番で卒業し、
恩賜の軍刀を拝受したのだ。
勉強方法は相変わらずで、
試験勉強に費やす
エネルギーは必要最小
限度にとどめて、
生涯のライフワークと
定めた戦史の研究に没頭
していたのだ。
もしも彼は1番で卒業
することを目指したら、
簡単にできていただろう。
だが、彼にとって成績が
1番か2番かということは、
大食い競争でうどんを
何杯食べたかというのと
同じで、何の意味もない
ことだったのだ。
1923年にドイツに留学
した石原莞爾(かんじ)
の研究対象は、
「ドイツはなぜ第一次
世界大戦に敗れたのか」
というテーマなのだ。
当時、敗戦直後のドイツ
には、ヒンデンブルクや
ルーデンドルフといった
第一次世界大戦の英雄が
健在で、さらにまた
ベルリン大学で歴史学・
軍事学の権威だった
デルブリュック教授も
いたのだ。
彼らの間で戦われた
論争は、ドイツ敗戦の
原因に関するもので、
殲滅(せんめつ)戦争と
消耗戦争の論争なのだ。
この論争に注目した
石原は、それが彼の
持論である
決戦戦争と持久戦争の
理論と同じであることを
悟ったのだ。
殲滅(せんめつ)戦争
というのは、1箇所の
戦場に大軍を集結し、
大会戦を行って敵の
戦力を一気に撃滅する
ことにより、
戦争の勝敗を決しよう
とするものなのだ。
この戦法はナポレオン
によって花開き、
普仏戦争で頂点に達した
19世紀型の戦法なのだ。
20世紀に入って
1914年の第一次世界大戦
の勃発に際しても、
ドイツはシュリーフェン
作戦によって、この
殲滅(せんめつ)戦争
で一気に勝敗を決しよう
としたのだ。
ところが、
第一次世界大戦は
4年3ヶ月も続いた
長期戦になって
しまったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

