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認めたんじゃ

どうも村田です

ウイロビーが

マッカーサーを説得し、

マッカーサーが吉田を

捻じ伏せて「正規の国防軍」

を創設し、

初代の国防軍司令官に

服部卓四郎を就任させるという

シナリオが実現していれば、

国防を蔑ろにし、自国民の安全を

アメリカに委ねるという倒錯した

国防政策は採用されなかったはず

なのだ。

戦後、日本がハンディキャップ国家

(小和田恒元外務次官が唱えた国家論)

に転落したのは

吉田(東條と軍に対する怨念)、

マッカーサー(バターンで〝敗軍の将〟

にされたトラウマに捕らわれ、冷戦

対応のための正しい戦略的な判断が

できなかった)、

ホイットニ

(日本の再軍備を許さない左翼・

ニューディーラー)という、

三人による「人災」だと思うのだ。


服部機関と陸軍中野学校の関係は

ほとんどないのだ。

指摘したいのは、陸軍中野学校

が日露戦争直後に設立されておれば、

服部に代わりうる凄腕の大佐・将軍

(情報将校)が輩出していた可能性が

あるということなのだ。

服部は陸軍士官学校出身の作戦の

天才と言われた男であるのだ。

だが、このようなキャリア では、

吉田、マッカーサー、ホイットニーを

〝調略〟できる諜報・工作の才能は

期待できないのだ。

服部に代わりうる諜報・工作の天才

中野出身の大佐・少将がおれば、

日本の戦後は大きく変わっていた

かもしれないのだ。


そのことは次の

「敗戦国ドイツの情報将校が仕掛けた

壮大な対米謀略工作」で紹介するのだ。

ドイツ陸軍参謀本部東方外国軍課の

課長だったラインハルト・ゲーレン

大佐の対米交渉の凄腕ぶりを見れば

その主張がお分かりいただけるのだ。

敗戦後、旧軍人(作戦畑のエリート)が

対米対応で成果を出せなかった背景

には「情報・謀略軽視」の中で

育った人材の限界があったのでは

ないだろうか。

山崎機関

二〇一〇年一一月二三日産経新聞に

「GHQ傘下の『山崎機関』判明、

日本軍の情報将校が『戦略地図』

作製、朝鮮戦争の米軍事作戦に活用」

と題する記事が掲載されたのだ。

それによれば、参謀部第二部長・

ウイロビー少将傘下に、旧日本軍

情報将校らによる「山崎機 関」

と呼ばれる情報機関があったとの

ことなのだ。

山崎機関は、GHQがあった東京都

千代田区の第一生命ビルから

一〇〇メートルほど離れた日本郵船

ビル二、四階にあったのだ。

山崎機関は、参謀本部で中国担当

だった山崎重三郎元陸軍中佐が

トップで「Yセクショ ン」とも

呼ばれたのだ。

同中佐のもとに、中国、旧ソ連、

朝鮮半島で諜報活動をしていた元

情報将校らの情報班のほか、

実際に地図を作製する製図班、

通訳班、タイピスト班など専門家

グループを抱え総勢八〇~一二〇人

が勤務していたというのだ。

山崎機関では、中国、旧ソ連、

朝鮮半島の軍事要塞や港湾、工場、

病院などを詳細に書き込んだ

戦略地図と解説書を作成し、

ウイロビー少将に提出したのだ。

朝鮮半島の詳細な地図には、

旧日本軍の弾薬庫などの施設、

造船所や工場、学校、病院などが

網羅されているのだ。

これらの施設には電圧や施設の形状

など詳細な解説が書き込まれていた

のだ。

一例をあげれば、日本統治下の

朝鮮半島で一九四四年三月に竣工

した当時世界最大級だった中朝国境に

ある鴨緑江の水豊ダム

(六〇万キロワット)の解説には

ダムの構造、送電、通信、渡河点

などがびっしりと書き込まれていた

のだ。

戦後、北朝鮮はこれら日本の施設を

使っており、米軍にとってはまさに

「宝」に相当する情報で、朝鮮戦争

では爆撃など使用されたと言われて

いるのだ。

産経新聞は、本件の取材を通じ、

戦略地図六点と、現地情勢を

記した調書(解説書)三通を入手

したというのだ。

取材に応じたのは、山崎機関の

中核にいた元陸軍情報将校

(二〇一〇年の時点で九一歳)と、

製図班で具体的な地図作製に

携わった二人

(二〇一〇年の時でいずれも

八〇歳代)だというのだ。

証言した三人は「山崎機関」の

存在を明言した上で、地図などを

「山崎機関」が作製したことを

認めたのだ。

六点の戦略地図はいずれも

一九五〇年ごろ作製されたのだ。

「山崎機関」所属で朝鮮半島担当

だった元情報将校(故人)がGHQから

持ち出して、三〇年ほど前に知人に

預けていたものだというのだ。

今回表に出す理由として

「資料を持ち出した故人の遺志を考え、

朝鮮戦争から六〇年という機会に

公開を決意した」と語ったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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