どうも村田です
雪中行軍では、生憎の
記録的な寒波
(北海道で史上最低
気温を記録)に襲われ、
参加部隊の第5連隊の
訓練参加部隊は視界を遮る
猛吹雪に遭遇して道を失い、
二一〇名中一九九名が死亡
するという痛ましい結果に
なったのだ。
生き残った者も全員が
凍傷になり、多くが
半身不随になったという
のだ。
参謀本部は、未体験ゾーン
の満州の極寒に備え、
これほど危険で厳しい訓練
を敢えてしなければ
ならなかったわけなのだ。
余談になるが、広瀬は
日露戦争中の三月二七日、
第二回目の旅順港閉塞作戦
において
閉塞船となる福井丸を指揮
していたが、敵駆逐艦の
魚雷を受けたのだ。
広瀬は部下に「撤退」を
命じたが、自爆用の爆薬に
点火するため船倉に行った
部下の
杉野孫七上等兵曹が未だ
戻っていないことに気付いた
のだ。
広瀬は杉野を救助する
ために一人で沈み行く
福井丸に戻り、
船内を三度も捜索したが、
杉野の姿は見つからなかった
のだ。
やむを得ず離脱用のボートに
乗り移ろうとした直後、頭部
にロシア軍砲弾の直撃を受け
即死したのだ。
享年三五歳だったのだ。
部下の杉野との「誠」を
貫いた広瀬は、日本初の
軍神として、
故郷の大分県竹田市に
広瀬神社が創建されたのだ
明石元二郎大佐が日露戦争
で活躍した経緯の一部は、
「日本の『特務機関』」の
中ですでに説明したところ
であるが、
改めて若干の重複も
いとわず詳述したいのだ。
なぜなら、明石元二郎という
駐在武官(諜報員)と
その諜報・工作活動こそが
陸軍中野学校教育の主要な
モデルだからであるのだ。
明石は、四分五裂していた
ロシア支配下の反政府勢力
(明石は「不平党」と呼んだ)
を
一つの方向に糾合させ、
ロシア国内の反戦・
反政府運動を扇動し
ロシア本国で大動乱を
起こすことに成功したのだ。
明石は、これにより、
ロシア軍の満州増援を阻止し、
当時のツァー(皇帝)である
ニコライ2世に戦争継続を
断念させ、終戦交渉を決意
せしめたのだ。
明石の功績について、
参謀次長の長岡外史は、
「明石の活躍は陸軍一〇個
師団に相当する」と評し、
ドイツ皇帝
ヴィルヘルム二世も
「明石元二郎一人で、満州の
日本軍(満州軍)二〇万人に
匹敵する成果を上げた」
と称賛したと言われているのだ。
なぜ明石工作が採用
されたのか。
田中義一少佐がロシアに
駐在し、ロシアの連隊勤務
までして得た情報がヒント
となったのだ。
田中は
「ロシア軍は恐れるに足らず」
と結論付け、
その論拠を
①上流階級の専制横暴と退廃、
②社会底辺の労働者や農民層
の積もりに積もった不平不満、
③ポーランドなどの征服国家
の怨嗟―の三点をあげたのだ。
ロシアの内情は、まさに
マッチ1本を投じるだけで
炎が燃え広がる
「枯れ草の草原」のような
状況だったわけであるのだ。
また、単騎シベリア横断を
実行した福島安正少佐も
同様な見解だったのだ。
福島は、ロシアに征服された
ポーランドやバルト三国を
通過したときに被征服民族の
独立運動を見て
「日露戦争勃発時には、
独立運動を支援・扇動して、
帝政ロシア国内(背後)を
撹乱する手もあるな」
とのインスピレーションを
得たというのだ。
日露戦争が迫り来る時点で、
明治政府・参謀本部が
「ロシアに対して勝利を得る方策」
をどのように考えたのだろうか。
以下は、「明石工作」が
日露戦争にとって、勝利に
つながる的確な「一手」で
あることを、
日本・米国・英国などが
今日用いている最新の戦略・
戦術の合理的な判断要領を
用いて改めて証明したいのだ。
ここで結論として
申し上げたいことは
「当時の参謀本部が採用した
明石工作 ロシア国内を撹乱
は、現代の軍事的な
状況判断手法に照らしても、
軍事戦略的に見て合理的な
判断であった」
ということなのだ。
以下これについて詳述するのだ。
これから戦争をしよう
とする段階で、相手(敵)
に勝つ作戦のやり方を
見出す手法のことを
「状況判断(decision making)」
と言うのだ。
「状況判断」とは、
第二次世界大戦において、
米軍で開発された
「作戦計画を立案する
ための思考方法」のことなのだ。
第二次世界大戦において、
米陸軍は開戦当初の十六万人
から最終的には二五倍の
約400万人にまで兵力を
動員・拡大したのだ。
軍事についてはド素人の
新米将校に、まず教え
なければならないのは
「自分が置かれた状況
(本人の地位・役割、敵、
味方、地形、兵站など)の中で、
上官から与えられた命令・
任務を達成する方策(作戦)
を見出すためにはどんな
思考・検討方法で行動方針
(平たく言えば「戦い方」)
を案出するか」ということ
だったのだ。
それが「状況判断」であるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる