どうも村田です

誰も戦死者を
宙づりにしていい
とは思っていないのだ。
それは右でも左でも
同じだと思うのだ。
それから未来の
戦死者の問題が
あるのだ。
『未来の戦死に向き
合うためのノート』で
一番言いたかった
ことなのだが、
これまでずっと
戦死者というと過去の
戦死者を意味していたが、
当然日本には自衛隊が
あり、自衛隊は日本の
国を守るのだ。
それから日本の国を
守るだけではなく、
その後、
国際的な任務も追加
されて、すごく危険な
任務も、今現在も遂行
しているのだ。
だから、戦いの中で
死ぬことがあるかも
しれないし、
それは当然あったとき
のことを考えないと
いけないわけなのだ。
自衛隊から戦死者が
出たらどうするのか
ということを、
内部ではそういう
問題意識を持って
考えているはずだが、
少なくとも国会とか
政府がそれをきちんと
やっているかというと、
やってないのだ。
新聞とかテレビの
メディアもそれを問題
として報道しないのだ。
これが未来の戦死者を
宙づりしているという
ことなのだ。
まだ死んでないが
まだ自衛隊員は戦死
という形では死んで
ないけれど、
自衛隊員の方からすると、
あるいは彼らを率いて
危険な地に赴いている
上官からすると、
「これ、もし死者が出た
場合どうなるのだろうか」
という不安を抱えた
まま現地に赴くことに
なるのだ。
宙づりになっている
ということなのだ。
死んだ後、いろいろ
またメディアとか国会
とかで責任問題とか、
「どうするんだ」
みたいな議論になる
のはかなわないなと、
それは国として
恥ずかしいことでは
ないと思うのだ。
だから、過去の戦死者は
もちろんだが、未来の
戦死者についても
きちんと居場所を定めて、
事が起こってから騒ぎ
立てたり、
論争が起こらない
ようにしてほしいな
とは思うのだ。
そして戦死者と
つながる問題だが、
では戦死者の居場所
ということで、少し
考えていることが
あると
申しあげたけれど、
それについては後ほど
話ししてみたいと思うのだ。
それからもう1つ、
戦死者とつながる問題で、
今現在の問題に絡めて
話したいのは、
ウクライナの戦い
というのがあるのだ。
ロシアの軍事侵攻に
対して、ウクライナが
戦場をすべて自国の
領土内に限定した
すごく苦しい戦いを
2年以上も続けている
のだ。
これについては
いろんな人が論評して、
専門家もたくさんいるし、
この戦争の原因とか、
あるいは今起こっている
ことについては、
いろいろなメディア
から情報を得ていると
思うけれど、
この戦争の報道に
触れて一番考えたのは
祖国という言葉なのだ。
当然、ウクライナでは
祖国という言葉がよく
言われているのだ。
外国にいたけれども
「祖国のために帰って
自分は銃を取る」とか、
あるいは
「祖国のために父親
である私は残って、
妻や子どもは避難を
させます」とか、
祖国という言葉が
すごく人々の心を
つなぎとめる
キーワードとして
言われているというのが
すごく印象に残ったのだ。
この先、ウクライナが
どうなるかというのは、
それは分からないけれど、
国が危険の下に
さらされたときに、
人々の心をつなぎ
とめる言葉とは何なのか。
やはり祖国という言葉
を使えるようにして
おかないといけない
のではないのか
ということを思って、
それでウクライナ戦争
が始まってから、
メディアの取材を
受ける機会があるごとに、
この祖国という言葉を
やはり使いましょうと
いうことをずっと言って
きたのだ。
最初が『毎日新聞』で
「守るべき『祖国』
薄れる日本」なのだ。
『朝日新聞』
は国葬の問題で、実は
記事の中で祖国という
言葉を使っているのだが、
見出しには出てきてないのだ。
ここでは公に尽くした
死者を語る言葉という
のが祖国の想像力と
つながるという話を
記事の中ではしているのだ。
それから2023年に
入ってから、
『読売新聞』
『産経新聞』では、
これはどちらも見出しに
祖国を入れていただき
ました。
ウクライナの戦いから
私たちが学ぶべきこと、
それは例えば兵器とか
軍の装備というレベルも
もちろんあるのだが、
それ以上に国民がきちんと、
有事の時に1つにまとまる
スイッチを
私たちは持っている
だろうか、祖国という
言葉で
まとめられるだろうか
という問題提起をして
いるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

