どうも村田です

「洵(まこと)にやむを
得ざるものあり」という
1句は、
昭和天皇の御意向で
付け加えられた1句
なのだ。
日清、日露戦争開戦の
詔勅に、
「凡そ国際条規の範囲に
於て一切の手段を尽し、
違算なからむことを期せよ」
という、つまりこれは
「戦争に際しては
国際法を遵守して行え」
というお諭しがあったのだが、
この対米英戦争の詔勅
にはそれがないのだ。
それについて東條
総理大臣はこう説明した
のだ。
それは
「陸軍のマレー半島上陸
作戦に際して、イギリス領
コタバルの少し北の方、
タイ国領のシンゴラ、
パタニという地区で、
タイ国領を少し犯して
上陸することになる」、
これは全く無害の通行
なので大国に迷惑を
かけることはないのだが、
「とにかくここに
国際法違反が生じる
ことは確かなのである。
それが分かっているから、
国際法遵守の御命令を
勅語に記載するわけには
いかない」、
こう説明を申しあげたのだ。
これはこれで筋の通った
言い分ではあったわけなのだ。
いよいよ東條英機が
大東亜戦争に臨んで、
いかなる苦境をたどるか、
その運命の変転ぶりを
見ていく事にするのだ
いよいよ大東亜戦争が
始まって、そこで開戦に
政治上の最大の責任を
持っている
東條英機がどのような
苦労をすることになるか、
それについてなのだ。
開戦を決意した以上は、
その戦争をどのようにして
終結をつけるか、
それを考えておかなくては
ならないのだ。
これは日露戦争の経験が
教えるところであるのだ
日露戦争の時には、
金子堅太郎伯爵が
アメリカの当時の
大統領の
セオドア・ルーズベルト
と個人的に親しい、
そういう縁故が頼みの
綱であり、
早くから戦争終結の
仲介を依頼するべく、
金子伯はアメリカに
渡っていたのだ。
今度の日米戦争では
そうはいかないのだ。
では、どのような個人
なり機関なりを当てに
して戦争の終結をはかる
ことができるのか
開戦と決議した、
昭和16年11月1日の
大本営と政府との
連絡会議の終了後に、
そこに思い至ったのは、
やはり東條英機なのだ。
それを11月4日の
軍事参事官会議の席上
でもって議題としたのだが、
誰にも良い案はない、
それは当然であったのだ。
東條は何とか案はないか
ということを皆にはかった
わけなのだ。
昭和天皇はバチカンの
教皇、つい最近、新しい
教皇が選ばれて就任した
けれど、
ローマ教皇を思い
浮かべておられた
らしいのだ。
そして、東條英機に
「この案を検討せよ」
と命ぜられるのだ。
具体的には当時、
ヴィシー政権のもとの
フランスに公使として
派遣していた
原田健(たけし)という
公使をこのローマの
バチカンへ特命全権公使
として派遣するという案が
あったのだ。
しかし、当時のローマ教皇、
ピウス12世という方だが、
この方はどうも
政治的中立の立場を貫く
ということに徹底した人で、
枢軸国と連合国との
和平交渉にも乗り出す気は
ないらしかったのだ。
ということは、日本と
アメリカとの和平の仲介に
立ってくれそうもない、
事実上、実際問題として
どの程度のお願いを
日本側がしたのか、
記録が残ってないけれど、
役に立ちそうもない、
天皇と東條の思惑が
この点で外れている
わけなのだ。
東郷外務大臣も、戦争が
始まってしまった以上、
戦争を終結させると
いうことが
国政を担う者の責任である、
そういう認識を深く心に
抱いて、
それを外務省の職員
たちに訓示していたのだ。
しかし、東郷さんは
和平の仲介を依頼すべき
人脈を持っているわけ
ではないのだ。
結局、しかるべき時を
つかんで和平工作を
始めるのが外交官の
責務である、
その心得を外務省の全員に
訓示するという程度しか
できないのだ。
そのしかるべき時、
それらしかった唯一の
機会が
昭和17年2月15日の
シンガポール陥落で
あったのだ
あのシンガポール陥落に
際して、イギリスに
和平を申し入れるという
ことは考えられないこと
ではなかったのだが、
当時は日本軍としては
まさにこれからオランダ領
インドシナに進出して、
そこの油田を押さえる
という作戦、それを
発動する寸前であり、
陸軍は勝ちに乗っている
戦だから、停戦の発想は
毛筋ほどもなかったのだ。
これは当然であり
そして残念ながら、
和平工作に着手すべき
機会を見つけるよりも先に、
米国がもはやそれに応ずる
必要がない戦局の転換が
意外に早く来てしまうのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

