どうも村田です

では祖国とは
何なのか。
実は研究者は祖国
という言葉を私たちの
言葉として
どういうふうに
使うのかというのを
やってこなかったのだ。
だから、自分で祖国
という言葉を使うときは
こういう定義で使います
というのを話しして
いるが、そこには
2つキーワードというか、
軸があると思うのだ。
1つが継承の物語、
もう1つが死者の記憶
なのだ。
継承の物語とは、
先人が育んできたもの
を受け継いで、
それを豊かにして
次の代に託していく、
世代間でだんだん
受け渡していくという、
これが継承の物語
なのだ。
これだけだと少し
足りないと思っていて、
これにプラスして、
それを守るために
戦った人たち、特に
その戦いの中で
命を落とした人たちの
記憶とこれがセットに
ならないと、
祖国という言葉に
きちんと血が通わない
と思っているのだ。
この祖国の創造力を
考えるときに、実は
一番参考にしたというか、
そこから着想を得たのが
創作特攻文学なのだ。
研究者は多分祖国という
言葉を学術的に定義する
ために。おそらく
日本人の研究者では
祖国の研究はないので、
外国の祖国論を持ってきて、
「誰々という研究者が
こういう定義で使っている」
というふうにして
議論を進めるのだが、
実は日本の中に祖国の
創造力を言葉にしていく
すごくヒントが詰まって
いて、それが創作特攻文学
なのだ。
特攻隊員が出てきて、
それで彼らがどんな
思いで戦いに臨み、
そしてその死者の記憶を
生き残りやその後の世代が
どういうふうに受け止めて
きたのか、
受け止めるのか
ということを、あの文学
ジャンルの中には、
実は祖国ということを
考えるヒントがたくさん
詰まっていると思うのだ。
これを別の言葉で言うと
命のたすきリレー、
命のたすきをだんだん
受け渡していく、
そういう歴史的な
時間軸を持った概念
として考えているのだ。
実はこれは最初に言った
自己啓発の本にも通じる
のだ。
自己啓発の本では
ここまで言葉を、
こういう使い方を
していないのだが、
命がだんだんこう
受け継がれていくのだ。
そうすると、自分1人の
人生が自分で完結する
のではなくて、
受け継いできたものを、
これをより良いものにする
という責任と、
より良いものにして、
これを子や孫、それから
ほかの人たちにだんだん
受け渡して託していく
という責任の2つが
あるのだ。
ということで、
祖国論というのは、
自己啓発とエンタメの
中から着想を得ている
のだが、
今はそこにしか
言葉がないのだ。
つまり、こういった
祖国とか命というのを
考えるためのヒント、
材料が、今はそこに
閉じ込められている
ということなのだ。
今新聞等で話す機会が
あれば言っているのは、
「公の死者を公的に祀る
というのをきちんと考えた
方がいい。
それを社会的に位置
付けること。宙づりの
ままにしておくのは、
やはり国として」
間違っているという
言い方は難しいのだが、
そういう国で、果たして
その他者のために命懸けで
何かの仕事に取り組む人が
出てくるだろうか
ということなのだ。
それは、自衛隊の
人たちは服務の宣誓をして、
いざというときは自分の
命を懸けて任務に当たると
いうことを宣誓している
わけだが、
これは公の死者が公的に
祀られ、社会的に位置付け
られることとセットで、
この服務の宣誓は
意味があると思って
いるのだ。
自衛官は国民の負託を
受けて危険な場所に
赴いているのだ。
では、国民の方はその
危険な任務に当たって、
もし万が一命を落とした
場合は、
その死をきちんと国民の
側が引き受けて、きちんと
社会的に位置付ける
責任があるというふうに
思っているのだ。
特攻隊の歴史を歴史学
として見ていくのではなく、
これが現代の人たちに
どういうふうに受け止め
られているのか、
そこからヒントを得ながら、
今、戦死者とつながり
やすくなっている、
これまでみたいに
戦死者と現代の私たちの
間にあった媒介、
人とか知識とか歴史認識
というものが、今これが
バラバラになって
くっ付いていない状態
そこでダイレクトに
つながる、
そういう回路がいくつも
出てきているということ
なのだ。
これは歴史を伝えていく
うえで良い面と悪い面が
あり
悪い面で言うと、なかなか
歴史に血が通わなくなって
いて
生々しさとか、過去の
人たちが受けた痛みとか
というものがテキスト
からは剥がれ落ちていくのだ。
そうやって文字情報として
歴史に触れるようになると、
やはり歴史の伝わり方
としては一面的になる
のではないかなということ
なのだ。
いいこともあって、
それは戦後ずっと戦死者
とつながるうえで媒介に
なってきたものが離れる
ことで、
これまでと違う戦死者と
私たちの間の関係の
結び方ができるように
なってきている、
そういう条件が整ってきて
いるということなのだ。
それがたまたま自己啓発
とかエンタメとかという
領域に閉じ込められている
のだが、
できるだけこれを開いて、
新聞とか、できれば
学校とか教育の場面で
そういった言葉とか物語
というのをみんなが使える
ようになりたい、
使えるようにして
いきたいと考えているのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

