どうも村田です

続いて、勝平宗徹
(1922~1983)氏
〇④臨済宗の僧侶で
ありながら、特攻隊へ
志願した。
しかし、戦闘が終結する
までに出撃の機会を得る
ことはなかった。
彼は、出撃を強く願い、
上官に何度も嘆願したが、
最後まで叶えられる
ことはなかった。」
ここまででは、
ケスレー氏は証言を
冷静に吟味し、
「志願」という判断に
傾いているように見え
るのだ。
ところが、特攻隊員を
送り出す側であった
猪口力平・元海軍大佐
(1903~1983) と
中島正・元海軍中佐
(1910~1996)が執筆した
『神風特別攻撃隊』
(昭和42年)を取り上げた
あたりから風向きが
変わるのだ。
ケスレー氏はこの本が
「長らく特攻隊に関する
代表的な資料とされてきた」
この本によって
「崇高な志願制は長らく
既成事実と見なされてきた」
と述べた後に、
特攻隊員は
「喜びの感激に興奮して、
全員双手を挙げて賛成した
とのこの本の記述に対して、
「中島が最初の特攻訓練
の計画に携わったという
事実を考えれば、
その記述には慎重な検討が
必要である。猪口自身が
特攻戦術の立案に関与し、
特攻隊の最初の飛行隊の
一つの指揮官に任命された
関行男についても、
この書では何のためらい
もなく作戦を受け入れた
と記されている。
しかし、実際にはまったく
逆だったと考えられている」
と書いて、
これ以降、「志願」
を否定する証言を連ねて
いくのだ。
〇〇⑤⑥まず、帝国海軍
の記者であった小野田政氏
の証言。
●⑦「関が特攻隊に
選ばれた際、彼はこう
答えたという。
「ぼくのような優秀な
パイロットを殺すなんて。
ぼくなら体当りせずとも
敵母艦の飛行甲板に
五十番(五〇〇キロ爆弾)
を命中させる自信がある」
この証言の後に、
ケスレー氏は
「中島自身も、戦争末期
には特攻隊員に対して
何らかの圧力がかかって
いたことを認めている。」
と付言しているのだ。
●⑧次に、1945年5月、
陸軍が実施した特攻隊の
士気に関する調査
●⑨これで
「隊員の3分の1が自爆作戦
への参加を望んでいなかった
ことが明らかになった。」
としているのだ。
軍が強制するつもり
だったら、逆にこんな
調査はしないと思うのだ。
どうしてこんな調査を
したのか。できたのか。
事実とすれば不思議なのだ。
次に、クラウス・
シェーラーという人物が
元特攻隊員たちに実施した
インタビュー
●⑩「特攻隊の募集は
命令によるもので今、
決して自発的なものでは
なかったことが語られて
いる。」
次に、特攻隊員であった
大貫健一郎氏(1921~2012)
●⑪「私が言えることは、
これは命令だったという
ことだ。決して志願
しなかった。
これは志願を装った
命令だったのだ。」
次に、久貫兼資氏
●⑫「あるパイロットが
「生きたい」と叫びながら
抵抗した事例を語っている。
しかし彼が知っている限り、
こうしたケースはその一例
しかなかったと認めている。
このパイロットは、
最終的には 「名誉ある」
死を遂げたという。
次に再び大貫健一郎氏
●⑫「上官から理由を
問われた際、その
パイロットは
「私はパイロットになる
ために来たのであって、
爆弾を抱えて敵に突撃する
ためではない」
と答えたという。
彼は厳しく罰せられ、
結局は
「自ら志願する」
という意思表示を文書で
提出させられた。
ここまでの列挙の後で、
ケスレー氏はこう
コメントしているのだ。
「こうした
「特攻は志願ではなかった」
とするインタビューに
ついても慎重に読む必要が
ある。
戦後、上層部の決定者
たちも、生き残った
パイロットたちも、
それぞれ責任を否定し、
やむを得ず出さねば
ならなかった命令の
犠牲者として、
はたまた受け取った
命令の犠牲者として
自ら提示したいと
思っている。」
この発言は、一見、
フェアに見えるが、
生き残った人々の
「卑屈」さを描いて
貶めているように
見えるのだ。
何故なら、次のように
言葉を継いでいるから
なのだ。
「特攻隊員はエリート
パイロットである、
新聞では「神鷲」、
すなわち「神の鷲」
として称賛された。
彼らの行動は、
家族や地域社会の名誉
と直結していたため、
命令の拒否は、単なる
個人の意思を超え、
家族や周囲に対しても
否定的な影響を及ぼす
ものと考えられた。」
つまり、周囲の圧力で
ことわれなかった、
というのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

