どうも村田です
いよいよ、五月二三日一七時
熊本の健軍飛行場から飛び立ち、
沖縄本島の北飛行場と中飛行場
を攻撃する「義号作戦」が決行
されることに決まったのだ。
当日、熊本は好天
隊員たちはいよいよ決死の
覚悟を決め、死出の儀式を行った
のだ。
ところが、いざ出撃という間際に、
先行した重爆撃機から「天候不良」
の報告が入り、 加えて、
「義号作戦」と同時に実施される
ことになっている海軍の
「菊水七号作戦」(特攻攻撃)
も一日延期する旨の通報があった
のだ。
出陣式では第六航空軍司令官の
菅原道大中将による激励と万歳三唱
まで行われたが、決行は翌日に延期
になったのだ。
これは、例えは悪いが、死刑囚が
執行直前に数回も中止となる事態に
似ているのだ。
義烈空挺隊の隊員たちの気持ちを
思えば、過酷な仕打ちであったのだ。
かくして、五月二四日、ようやく
「義号作戦」は決行されたのだ。
一二機の重爆機は予定どおり
一八時五〇分に次々と熊本の
健軍飛行場を飛び立ったのだ。
奥山隊長の一番機には
中野出身者の辻岡少尉、阿部少尉、
酒井軍曹、菅野軍曹が乗り込んだ
のだ。
石山少尉、梶原少尉、原田少尉、
棟方少尉、渡辺少尉も、他の機に
搭乗したのだ。
熊倉少尉が乗った一〇号機は離陸
できず、別の機体に乗り直して
後を追った
(不運にも、エンジン不調により
雲仙岳あたりに不時着した)。
「二二時一一分、只今突入」
という連絡が入り、その直後、
通信傍受班は米軍の緊急無線 (生文)
を次々にキャッチしたのだ。
「北飛行場異変あり」、
「島外飛行場を利用せよ」、
「空母の位置を知らせよ」
などと米軍が「義号作戦」により
大混乱に陥っている様子を窺う
ことができたのだ。
戦果視察任務の重爆機は、
「義号作戦」に任じた重爆劇機が
着陸したことを示す「赤信号灯」が、
北飛行場で四個、中飛行場で二個
確認できたと帰還後に報告している
のだ。
報告が正しければ、作戦に参加した
十二機中半数は強行着陸に成功した
ことになるのだ。
残念ながら、義烈空挺隊員の決死の
奮闘ぶりをモニターする手段は
なかったのだ。
ただ、翌 二十五日に行われた
航空偵察結果では、
「北飛行場は機能を喪失しており、
中飛行場も使 用を制限され、空挺部隊
は引き続き戦闘を継続している模様」
との報告があったのだ。
戦後の米軍側の記録には、
「胴体着陸したのは一機で、機中
から一二名の隊員が躍り出て、
手榴弾投擲や焼夷弾攻撃を行い、
四〇機近くの飛行機を破壊し、
二〇名の米兵を殺傷し、
7万ガロンのガソリンを炎上
させたのだ。
翌二五日正午頃、一名の日本兵が
残波岬の草むらに隠れようとする
ところを射殺された。日本兵の
遺体は六九名を数えた」とあるのだ。
この最後の一名が中野学校出身者
だったかは不明なのだ。
連合軍(米軍)は、一九四四年七月に
グアム島を、八月にテニアン島
(サイパン島の南 西約八キロメートル
にある島)を攻略した後、
一〇月にはフィリピンに上陸したのだ。
こうなると次の決戦地は沖縄に
なることは自明だったのだ。
沖縄が本土決戦の最後の砦だった
わけであるのだ。
護郷隊【ごきょうたい】とは、
大東亜戦争末期の沖縄戦を戦う
ために、大本営の命令で編成
された
第三遊撃隊
(村上治夫大尉以下四個中隊で
総勢約五〇〇名)と
第四遊撃隊
(岩波壽大尉以下三個中隊で
総勢約三九〇名)のことである。
護郷隊は、総勢約一〇〇〇名で、
二俣分校を含む中野出身者数十名が
中・小隊長などを務め、一四歳から
一八歳の沖縄の少年兵で編成された
のだ。
なお、小隊長以下の中野出身の
兵員は地元出身者が多かったのだ。
これらの二個遊撃隊は牛島満中将が
指揮する第三二軍(沖縄守備隊)に
組み込まれたのだ。
第三遊撃隊が第一護郷隊、
第四遊撃隊が第二護郷隊であるのだ。
ちなみに、第一遊撃隊は
ニューギニア、第二遊撃隊は
インドネシア東部に展開していた
のだ。
護郷隊の本来の任務は、第三二軍が
壊滅してもなお、沖縄で遊撃戦を
続けることで本土決戦を先延ばしに
するという、
いわば「捨て石」のような役割が
期待されたのだ。
約一〇〇〇 名の隊員のうち一六〇人
が戦死したが、秘密部隊であったため
軍人恩給などは支給されなかったのだ。
長く語られてこなかった護郷隊
について、NHKが二〇一五年に
「あの日、僕らは戦場 で〜少年兵の告白〜」
というアニメ・ドキュメント
番組を制作・放映し、大本営が
一四歳から一八歳の少年兵を招集
してゲリラ部隊をつくり、厳しい
訓練と懲罰を行ったことが公になった
のだ。
極めて残酷な史話だが、
八方塞の中で、国を守るために
先人が行った現実として目を
叛けてはならないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる