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息苦しいんじゃ

どうも村田です

儒教の言葉でいうと

「修身斉家 

治国平天下

(ちこくへいてんか)」

というのが

分かりやすいのだ。

どういうことか

と言うと、

「私の身を治めれば

まんまにして家が治まる、

家が治まったら国が

治まって、

国が治まったら

天下平等だ。天下が

平らになる」

と、そういう意味で

いうと、非常に単純な

社会と言ってもいい

だろうう。

その中ではもちろん

身分に応じた服装、

身分に応じた話し方、

身分に応じた振る舞い

方があって、その型に

われわれがなじんでいけば、

すなわちその型が

そのまま社会に通じる

ものになるのだ。

だから、

「型」の洗練が

まんまにして、

職人の芸術、

あるいは玄人の芸術

になるのだ。

例えば能にしたって

歌舞伎にしたって、

落語にしたって、

型を覚えることが

まんまにして自己表現

につながるわけなのだ。

その時に師匠の

ことをいちいち

「師匠のそこが違うよ」

とか言ったら

「もう破門だ」

みたいになるのだ。

ということは、

ここに批評意識は

いらないのだ。

まず型があり、

その型を徹底的に

学ぶことが

われわれの社会的な

振る舞い方につながる

のだ。

だからいい意味でも

悪い意味でも、

自己反省も批評意識

もいらないのだ。

だから疑いがない、

非常に健康な状況

かもしれないのだ。

しかし、近代は

そうではないのだ。

その場で生まれて

その場で育っていく

ということもないし、

型を見つければいい

というわけにもならない

のだ。

われわれが生まれた

瞬間、サラリーマンに

なるのか、

国家公務員になるのか、

あるいは浮浪者に

なるのか全然分からない

のだ。

なぜわからないのか

というと、ここから

抜け出て、

われわれが近代社会、

つまり都会に来たから

なのだ。

私もそうだけれど、

どこかで必ず

やっていると思うのだ。

私の場合は親世代から

都会に来ているのだ。

そこから多分我が家は

近代が始まったのだろう。

逆に言うと、

おじいちゃん世代

というのは

まだ近代が始まって

いない、つまり

前近代社会の記憶を

まだ引きずっていた

ということもあるかも

しれないのだ。

しかし、大体近代が

押し詰まるとこうなる

のだ。

どうなるかというと、

なぜなら地縁共同から

出てくるわけだから、

周りの知らない人は

「誰」という話に

なるわけなのだ。

例えば簡単なことを

言うと、帝国大学に

入り

帝国大学なんて、

いろんなところから

来るわけで

四国から来る、

九州から来る、

もちろん本州も広い

のだ。

北海道から当時

来たかどうかは

分からないけれど、

あり得るのだ。

その時に大学になった

時に、他者A、他者B、

他者C、他者Dと

全然違うところから

来た人たちと会わ

なければならない。

しかもほかのところ

から来た人たちとは

地縁共同体で生きて

いないので、

「こいつ何考えてんだ」

みたいな話になって

いるわけなのだ。

これもいつも言うけれど、

つまり中2病なのだ。

この人が何を考え

ているか分からない

から怖いので、仮面を

被るのだ。

大体そうで中学、

高校は仮面を被るのだ。

仮面を被って少し気を

使って人との距離を

測りながら、それで

「ちょっと気が合いそうかな」

とか、見ているアニメが

一緒だったら

仮面を1枚剥がして、

次は仮面を2枚剥がして、

「ああ、こいつとは

仮面3枚までいけたわ」

みたいな、

「こいつは仮面1枚だけど、

こいつは仮面20枚だな」

みたいな、そんな感じなのだ。

こんなことは前近代では

考えないわけなのだ。

しかし、近代社会に

来ると考えだすのだ。

そうするとどうなるか

というと、社会に適応

するための仮面を被る

のだ。

この仮面はもちろん

息苦しいのだ。

なぜならば、

演技をしているから

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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