どうも村田です

日米交渉に当たる
日本の手の内を
知っているのだ。
さらにまずいことに、
その解読結果が故意か
偶然か、それが
合わさったのかも
しれないが、
ひどい歪曲(わいきょく)
と誤解に満ちた英文に
翻訳されていたのだ。
結局、昭和16年の8月以降、
日米交渉の実態は、
ルーズベルト大統領の
腹の内をよく知っている
国務長官筋、ハルたち
なのだ
一方、近衛は
「何とかして交渉を
成功させたい」との
悲願を持っている弱い
立場にあるから、
その近衛をだまし、
はぐらかして時を
稼いだのだ。
そして、日本を開戦に
追い込む謀略を
もてあそんでいたと
同じことなのだ。
東條がいくら忠実に
天皇のご意向に沿って
手を尽くそうとしても、
運命という大きな歯車は
すでに後戻り不可能の
回転を始めていたと
言ってよいのだ。
さて、16年の11月26日、
連合艦隊司令長官の
山本五十六の命令を受けて、
ハワイ空襲の機動部隊
が千島の択捉島単冠湾を
出航するのだ。
たまたまこれと同じ日付で、
アメリカの国務長官
コーデル・ハルの最終回と、
いわゆるハル・ノートが
届くのだ。
その内容は、翌27日の
大本営政府連絡会議において、
「これが最後通達である。
開戦通告と同じ意味を
持つもの」と判断される
わけなのだ。
この時に東郷茂徳外務大臣
はハル・ノートの内容を
公開しなかったのだ。
自分の回想記の中では、
「ハル・ノートに接した
時には目のくらむような
失望を覚えた」と、
受けたショックのほどを
回想しているけれど、
その衝撃に対して
隠忍自重の姿勢を取り
続けるのだ。
そして、周囲には
ハル・ノートの内容を
漏らしていないのだ。
もし東郷外務大臣が
ハル・ノートの内容を
報道言論機関に対して
公開していたら、
日本の各新聞はそれを
大々的に報道して記事に
しただろう。
そして、
「日米戦争はハルの最後
通達によって始まったのだ」
という事実が世界に広がった
だろうと思うのだ。
そして、
「日本海軍の真珠湾攻撃は、
宣戦布告に先立つ無通告
攻撃というわけではない。
ルーズベルトが世界に
向けて誹謗(ひぼう)
したようなスニーク・
アタックだったわけでは
ない」という
認識が広がったのでは
ないかと考えるのだ。
あるいは、日本が
ハル・ノートの公表を
あえてしたことによって、
アメリカも公然たる
戦時体制に入り、
パールハーバー攻撃の
効果は大いに減殺された
かもしれないし、
パールハーバーで
日本の航空隊はもっと
猛烈な要撃に遭って
いたかもしれない。
しかし、
「スニーク・アタック、
無通告攻撃だという
誹謗(ひぼう)を
後世にまで残すよりは、
それでもよかったんじゃ
ないか」
とは思うのだ。
少し話を前に戻して、
開戦を決定した以上、
宣戦布告という儀式が
必要になるのだ。
宣戦の詔勅の起草は
11月中旬に始まるのだ。
陸軍省、海軍省、
外務省の局長級の
人物が審議に加わり
東條総理大臣も案文の
検討に参加するのだ。
そして、たびたび詔書の
文案を天皇にお届けして
御説明を申しあげる、
またその際、御意見の
お伺いもするのだ。
これは第1級の学者と
言論人が校閲している
にもかかわらず、
歴史的文書としては
表記の不統一があったり、
文法上の誤りさえ
1カ所あると指摘されて
いることだが、
この件は今は取り
上げずにおくのだ。
東條首相が驚いたのは、
天皇が明白なイギリスに
対する心外の意識を
持っておられたことなのだ。
これは当然で
イギリス王室と日本の
皇室とのお付き合いの
歴史というものを考えれば、
それは当然なのだ。
また、天皇が
「最後まで自分は
開戦に反対であった」
という御本心を何とか
勅語の条文の中に
とどめておきたいという
御意向を隠されなかった
ことも注意すべきことで
あるのだ。
そこで少し勅語の文案を
検討してみると、
「今や不幸にして
米英両国と釁端(きんたん)
を開くに至る。
洵(まこと)にやむを
得ざるものあり。
豈(あに)朕(ちん)
が志ならむや」
という3つの句の
うちの第1句と第3句
なのだ。
これは実は日露戦争開戦
の時の詔勅の前例に
倣って作られた一種の
定型であるのだ
ところが、その間に
挟まれた
「洵(まこと)に
やむを得ざるものあり」
という1句は、昭和天皇の
御意向で付け加えられた
1句なのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

