どうも村田です

日本における
典型的な過激思想書
としてやり玉に
挙げられているのだ。
一時は誰も閲覧
できない状況に
置かれた焚書
というものが、
現代日本にいかなる
影響を及ぼしている
のか。
そして私たちは、その
失われた部分をいかに
して取り戻せるだろうか。
GHQとしては、
橘孝三郎の著作を
極端な
愛国主義を煽る多数の
書物の一つとして
位置づけ、
そのなかから目についた
本を選んだに過ぎないと
考えられるのだ。
しかし本書の内容は
農本主義を基盤とし、
「日本を農業中心の
村社会に戻すべきだ」
という主張を含むもの
であるのだ。
だがしかし、そうは
いっても、現代社会に
おいては
ポル・ポト的な暴力的
社会改造をおこなわない
限り、
その急速な実現は困難
であるため、あくまで
現代文明に対する
カウンター的思想として
位置づけられるべきで
あるのだ。
しかし、日本列島に住む
以上、米や食料の不足は
避けられず、
農業を軽視し、農村を
衰退させ、第一次産業
人口の減少を近代化の証
とみなす価値観は、
戦後も継続してきた
その結果、橘氏の時代を
はるかに超えて食糧
自給率は低下し、
米不足が社会問題化
するに至ったのだ。
令和の米騒動において、
「備蓄米の放出」
が報じられ、
いわゆる「古古米」が
スーパーに並び、それを
「やっと買えた」と伝える
報道があったのだ。
この現状は、農本主義者
・橘孝三郎氏に見せられる
ようなものではないのだ。
橘氏は、生産地である
農村ではなく、都会で
数年前の米を投機的に
溜め込む商人の姿勢を
厳しく批判していたのだ。
現在、国が非常時に備えて
米を備蓄していること
自体は必要な政策であるが、
その備蓄の運用や考え方
に深みが欠けていることは
問題であるのだ。
そもそも、米価は長らく
低く抑えられており、
それによって農家は困窮
してきたのだ。
実際に米が不足してから
何とかして放出して
価格調整に乗り出す一方で、
価格がわずかに上昇すると
都市住民の負担を理由に
再び引き下げようとする
政府の姿勢に対し、
農民は怒りの声を
上げているのだ。
しかし、そうした農業
従事者たちの声に
どこまで耳を傾けて
いるのか
よくわからないのが
今の政府であるのだ。
備蓄米は本来、大災害に
備えて積み増すべきであり、
とくに南海トラフ巨大地震
のように甚大な被害が
予測される事態では、
東日本大震災の何倍もの
備蓄が必要であるのだ。
しかし政府は
「震災時並みの備蓄が
あるから大丈夫」
としており、
その姿勢は極めて
危ういといえるのだ。
これは政府に対して
当然おかしいと感じるべき
事態であるのだ。
状況は極めて混乱しており、
橘氏であれば、この段階の
嘆きの百倍もの嘆きを
抱いたであろう。
資本主義が工業や商業の
発展していくなかで
農民が苦しめられる
というのは、
世界各国で共通する
パターンの問題なのだ。
そうすると、
「農民を軽んじる
のはけしからん」
ということで
必ず農本主義というもの
が出てくるのだ。
そういったなかでの
日本的なパターンが、
この問題を論じてきた
橘氏の言説に違いない
だろう。
彼の言論は日本の土地や
農業、のもとで結びついて、
左翼よりも右翼的な表現を
用いたため焚書の対象と
なったのだ。
こうした思想は、現代の
都会人にとって耳が痛い
ものであり、
「都会を批判されても困る」
という感覚が根強いのだ。
結果として、日本人は
GHQの焚書以前に、戦後の
社会的流れからこうした
本を読みたがらない傾向
にあるのだ。
しかし、農本主義の重要な
思想家である橘孝三郎や、
その先輩にあたる
(五・一五事件や血盟団事件
に関わる)
権藤成卿といった人物を
知らずにきたことのツケが、
今まさに回ってきている
と考えられるのだ。
耳が痛くとも、食糧問題は
人間の根本であるという
ことを理解しなければ
ならないのだ。
都市文明は大災害が起きれば
一瞬で崩壊し、物資が届かず、
多くの人が飢餓に陥る危険性
があるのだ。
理屈では理解していても
実感が伴わず、そうした
危機を体験しなければ
実感できないのかもしれない。
だがやはり、こうした重要な
本を読まず
(あるいは読むことができずに)
にきたことが、
現代日本において深刻な
問題を生んでいるといえるのだ。
したがって、新しい政党が
次々と誕生しているが、
そのなかから農業の問題を
真剣に取り上げ、
改善を訴える政党がもっと
現れてほしいものである
のだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

