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逃れてきたんじゃ

どうも村田です

この二・二六事件を

契機として昭和天皇と

東條との間の信頼関係は、

まだしばらくは人の目

には見えないというまま

であり、

それが公に現われる

ということはなかった

のだ。

事件の結果として陸軍の

内部での、皇道派、

天皇の道をもっぱらにする

という皇道派

皇道派の勢力は

はなはだしく衰えたのだ。

それはその反乱の

青年将校たちが皆

皇道主義に動かされて

いたからであるのだ。

以後、それに対抗する

統制派

陸軍の統制がまず大事だと、

こう考える派閥であるが

その統制派が軍政の覇権を

握るようになるわけなのだ。

一方で、この大規模な

反乱軍の出現が政治の

世界に対しては

陸軍への漠然たる恐怖を

植え付けたということも

また確かであるのだ。

陸軍というのはとにかく

武器を持った集団なのだ。

あれがもし反乱を

起こした場合は、その

矛先がどちらへ向かうか

はまだ分かったものではない、

ひょっとしたら自分たち

に向かうかもしれない

ということで、

政治家たちは要するに

陸軍への恐れというもの

を植え付けられたのだ。

そこで岡田内閣の後を

引き継いだ広田弘毅内閣だが、

陸海軍大臣は現役将官たる

ことという制度の改革をしたのだ。

それは残っている皇道派

がまたしても政治の現場に

入ってくるのを防ぐため

という、

そういう理由があったから

であるが、しかし、やがて

その陸海、要するに軍部の

大臣は現役に限る

という制度の改革が、

これはまた別の武器

としての作用をするのだ。

つまりその場合には、

例えば陸軍の気に入らない

内閣を倒す、ないし

成立せしめないという、

そのような武器として

軍部の利用するところに

なるわけなのだ。

それは広田内閣の後に

宇垣一成に組閣の勅命が

下った時に、

かつてこの宇垣一成

という人は軍備の削減を

強行した人であり、

それに対して恨みを

抱いている陸軍が

陸軍大臣の候補者を

出さないという形で

宇垣内閣の成立に

抵抗するのだ。

そして、この抵抗は

見事に功を収めて、

宇垣内閣は陸軍大臣が

得られないために流産

してしまうのだ。

そして宇垣に代わって

先ほど少し名前が出た、

越境将軍の林銑十郎

(せんじゅうろう)

が内閣を組織したのだが、

この林という人は政治家

としての資質が大きく

欠けた人物である

ということが明らかなのだ。

そこで、この人は

祭政一致、祭も政も

まつりごと言うが、

祭政一致という熟語で

お分かりと思うが、

祭政一致という

少し時代外れの政権を掲げて、

後世の笑いものになった

だけであるのだ。

議会の支持を得られる

ことなく、わずか4ヶ月で

議会から退陣要求を

突き付けられて辞職して

しまうのだ。

その後に第1次近衛内閣が

成立し、そこで東條英機が

ついに国政の現場に姿を

現すという条件がそろうのだ。

そこに至るまでの経緯、

少しこれを付け加えて

第1次近衛内閣の発足が

昭和12年、1937年、その

6月4日なのだ。

それから1月経たない

7月7日が盧溝橋事件の日

であるのだ。

つまり、大東亜戦争に

直接つながる昭和の

大動乱が開始した日で

あるのだ。

この支那事変が日本国

政府の現地解決・

不拡大という方針が

はっきりあったにも

かかわらず、

またどこでも事変扱いで、

もちろん兵は出したけれど、

宣戦布告ということが

なかったのだ。

それがあれほどの

全面戦争に立ち至って

しまった原因というのは、

確かにこの満州事変の

見事な成功を記憶に

持っている日本側に、

この事変に対する非常に

積極的な姿勢があったから

であると、それは確か

なのだ。

しかし、そもそもの

支那事変が全面戦争化

する最大の原因は、

これは中華民国側の

戦争への意志であると、

こう言うべきであろう。

この年の12月に日本の

陸軍は、首都南京を

攻略してこれを占領

するのだ。

しかし、敵国の首都を

陥落させればそれで

戦争の勝敗が決まる

といった、

まるで日本の戦国時代

のような戦争観念を

あざ笑うかのように

蒋介石の対日戦争意欲

は揺るがない、堅固

なのだ。

そして蒋介石は重慶に

政府を移して、抵抗が

少しも緩まないのだ。

事変は当然翌年の

昭和13年にも鎮定できる

見通しが立たないのだ。

その12年の8月に、

これが少し付け加えて

おきたいことなのだが、

樋口季一郎中将が参謀本部

の情報部長となっているのだ。

樋口季一郎さん、最近

非常に有名になった将軍

だが

そして、その13年の3月

のことであるが、ソ連と

満州との国境の町、

オトポールというところ

にナチスの迫害を逃れて

シベリア鉄道に乗って

やってきた

多数のユダヤ人の難民が

到着したのだ

このユダヤ人たちは

文字通りの難民であり、

要するに欧州、

ヨーロッパの戦乱を逃れて

きただけだから、ビザも

パスポートも持っていない

のだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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