どうも村田です

最近も、これも創作
特攻文学に入れても
いいと思うけれど、
『ゴジラ-1.0』
主人公が特攻隊員の
生き残りで山崎貴監督
・脚本ということで、
脚本を手がけた
山崎貴監督が自身で
ノベライズしている
のだ。
映画公開とほぼ同時に、
この文庫版も刊行されて
いて、これが非常に
売れているわけなのだ。
ということで、戦争文学
というのは特攻文学なのだ。
もちろん原爆とかを題材
にした小説、映画も作られて
いるのだが、
実際に兵士が出てきて
戦争を戦うというのは、
特攻隊にどんどん限られて
いくようになっているのだ。
これは大体若者向けの
小説が多くて、皆さんの
年代が、
これらの作品をどこまで
ご存知かというのは
分からないけれど、
「映画は覚えている」
「映画化されたのは覚えている」
という感じかと思うのだ。
これについて、創作と
文学というのは、知覧
とか遺書みたいに、
割とごく少数の人が
それに心を動かされて、
少数の人が少数の人を
呼んで
どんどんリピートして
いくというのとは違って、
ものすごく映画化されて
いるのだ。
それから舞台化されて
いるものもあり、テレビ
ドラマになっているもの
もあり、
創作特攻文学というのは
すごく大衆向けの
コンテンツであるのだ。
つまり知覧とか遺書よりも
より広い人に向けて
作られているのだ。
広い読者、広い観客に
向けて作られており、
特に映画は商業的な意味も
すごくあって、単に分かる
人だけ分かればいいという
ことではなく、
かなりメッセージを
はっきり打ち出して、
映画館の中であるシーン
を見ながら
観客が涙を流すという
のが絶対必要になって
くるのだ。
だからある程度話の中で
感動を作っていくという
側面がどうしても出てくる
のだ。
特攻文学の場合はそれが
すごく向いているという
コンテンツでもあるのだ。
それをいろいろと分析
したのが、こちらの
『特攻文学論』という、
『未来の戦死に向き
合うためのノート』
の続編に当たる本なのだ。
そこで取り上げられている
テーマを簡単に書くと、
死んだ仲間と生き残りなのだ。
戦争だから、死ぬ人と
生き残る人が出るのは
当然といえば当然なのだが、
特攻隊というのは単に
普通の戦場ではなくて、
自分も死ぬつもりで、
仲間との強い結び付きの
中で訓練をして出撃を
迎えるのだ。
だから、仲間が死んで
自分だけが生き残った
ということに対して、
負い目を抱くのだ。
これが1つ、特攻文学の
大きなテーマになって
くるのだ。
生き残った人が当時の
特攻隊の記憶をどういう
ふうに抱えて戦後生きて
いくのかということなのだ。
それはすごく苦しい経験
でもあり、なぜかというと、
戦後、特攻隊の歴史は、
若者がたくさん死んで
悲惨な歴史ということ
でもあるのだが、
戦後、元特攻隊員とは、
特攻くずれとか、
軍国主義の成れの果て
みたいな、すごく差別的な
見られ方をしたのだ。
だから自分が実は特攻隊に
いたということを周りの人
に言えずに、
1人で抱えたまま戦後を
生きていくということが
結構あって、それがドラマに
なるわけなのだ。
生き残りの人が負い目を
抱えたまま生きていく、
「どうして自分は生き
残ったんだろうか。
どうして仲間が死んで
自分が生き残ったのか」、
自分が生きている意味を
問い直したりというのも
あるのだ。
その中で生かされた意味
とか、死んだ仲間から
自分が何を託されて自分は
生きているのだろうか
というふうに、大体が
未来につながるような
ストーリーになっていく
のだ。
戦後50年から戦後80年と
書いたけれど、戦後50年、
60年の辺りはまだ
特攻隊の生き残りの
人たちがご存命なのだ。
戦後50年というのは、
大体まだ70歳前半ぐらいで、
戦後60年で、
でも80歳前半ぐらいという
ことで、だんだん年老いては
いくのだけれど、
まだ当時の記憶を持って
いて、ドラマの登場人物
として
特攻隊の生き残りと
いうのがまだ出て
こられるのだ。
ここに挙げたものの中で
『月光の夏』
『男たちの大和/YAMATO』
『出口のない海』、
これは全部死んだ人と
生き残った人の間の
関係性を描いたドラマに
なっているのだ。
『永遠の0』
についてはすごく有名な
作品だが、これも
生き残った人に
死んだ特攻隊員の孫が、
当時の自分の祖父が
どうだったのかということを、
証言を求めて聞き取りに
歩き回るという話なのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

