どうも村田です
南方作戦の一つ
マレー作戦は、大東亜戦争開戦
(一九四一年一二月八日)
と同時に発動されたのだ。
第二五軍は、開戦と同時に
タイ王国とイギリス領マラヤに
奇襲上陸し、
英国軍の縦深にわたる防御陣地を
連続的に攻撃しつつマレー半島を
南下してジョホールバルに進出したのち、
ジョホール水道を渡河して
最終目標のシンガポール
(アジアにおける英国の拠点)
を攻略する計画だったのだ。
開戦時の兵力は、山下中将の
第二五軍
(近衛師団、五師団、一八師団)
の三万五〇〇〇 人に対して、
英国陸軍は倍以上の八万八六〇〇人
(英国兵一万九六〇〇人、インド兵
三万七〇〇〇人、オーストラリア兵
一万五二〇〇人、その他一万六八〇〇人)
だったのだ。
また、 シンガポールの英国海軍は、
戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ
やレパルスなどが配置されていたのだ。
一九四一年一二月八日、第二五軍は
英領マラヤのコタバル方面とタイ王国
のシンゴラ・パタニ方面に上陸、
英国軍と交戦しながら南下し、
翌年一月三一日にはマレー半島最南端
のジョホールバルに到達し、
二月一五日にシンガポールを陥落
させたのだ。
ジョホールバルに到達するまでに、
英国軍と九五回の戦闘を行い、
二五〇本の橋梁を修復し、
突進・包囲・迂回を繰り返して
英国軍に対応する暇を与えなかった
のだ。
攻撃開始から ジョホールバル
占領までに要した期間は五五日で、
この間一一〇〇キロメートルを
進撃したのだ
(一日平均、約二〇キロメール
という驚異的な速度)。
すでに説明したが、大東亜戦争の
開戦に際し、F機関の藤原中佐と
インド独立連盟の
ラース・ ビハーリー・ボース議長
などの一行はマレー作戦に参加し、
英軍のインド人兵士に対する
工作活動を展開したのだ。
藤原は、投降したインド人兵で
軍部隊を編成しようという
参謀本部の意向を踏まえ、
その指揮官となるべき人物(将校)
を求めていたのだ。
藤原は、マレー半島西岸の街
アロールス ターで投降してきた
モーハン・シン大尉の人物を見込んで、
投降してきたインド人兵士の統括を
引き受けるよう説得したのだ。
モーハン・シンは、いったんは
答えを保留したものの、日本軍と
インド人兵士を対等に扱うこと
などを条件にこれを承諾したのだ。
藤原は、投降したばかりの
モーハン・シン大尉にアロールスター
の治安回復を任せたのだ。
混乱していた街は一時間も経たない
うちに秩序を取り戻したそうで、
その光景に日本軍将兵たちは驚いた
というのだ。
参謀本部は、マレーやシンガポール
で英軍と戦闘中に捕虜となった
英国軍将兵の中から
志願者を募ってインド国民軍(INA)
を創設・編制することとしたのだ。
一九四一年末、藤原少佐の呼びかけで、
モーハン・シン大尉を代表とする
インド国民軍が立ち上げられたのだ。
日本軍とインド国民軍とは同盟
関係の友軍であるという約束が
取り交わされたのだ
藤原のF機関は、インド国民軍を支援し、
インド兵捕虜をインド国民軍に引き渡す
ことで、インド国民軍の勢力は拡大した
のだ。
インド国民軍の創設による成果は
すぐに現れたのだ。
同軍のアラデラ大尉は、
シンガポール攻略において、
激しい抵抗を続けていたインド人
将兵に対し説得工作を行ったのだ。
アラデラ大尉による魂を揺さぶる
説得によって、英印軍一個大隊が
投降したのだ。
シンガポール攻略を終えた時には、
インド国民軍の兵力は五万人以上
にまでに膨れ上がっていたのだ。
マレーやシンガポールを防衛する
英軍とは言っても、その中には
半数近いインド人将兵を抱えて
いたのだ。
日本軍によるシンガポール陥落
(二月一五日)の翌々日、
ファラパークに集められた
インド兵捕虜約五万人を前に、
F機関長の藤原はスピーチ
(説得工作)を行ったのだ。
〈日本軍は、インド兵諸君が
祖国解放のために忠誠を誓い、
インド国民軍への参加を希望する
ならば、
捕虜の扱いを止め、諸君の闘争の
自由を認め、全面的支援を与える〉
英国植民地の桎梏からの解放を
切望するインド兵捕虜は、この
スピーチを聞いて歓喜したという
のだ。
藤原の「誠」がインド兵士たちの
心に通じたのであるのだ。
インド国民軍が膨れ上がったため、
一九四二年四月、F機関は発展的に
解消し、岩畔関に引き継がれたのだ。
藤原少佐は南方総軍司令部に
異動となったのだ。
インド国民軍の管理は、その後
岩畔機関、更には光機関に
引き継がれたのだ。
インド国民軍は、その後ビルマの
戦いに引き続き、あの悲劇的な
インパール作戦にまで参加する
こととなるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる