どうも村田です

次が西郷隆盛で、
さいごが
「「爆弾三勇士」
なのだ。
「1932年2月22日、
上海郊外にて、竹槍と
手榴弾を手にした
3名の日本兵が、
中国軍の防衛陣地に
突入し、敵防衛線に
突破口を開くために
自らを犠牲にしたと
されるのだ。この逸話が
真実であったかどうかは
ほとんど重要ではない。
というのも、この出来事
は即座にプロパガンダに
取り込まれて、
彼ら3名の兵士は
国民的英雄として
称えられることと
なったからだ。」
さて、この章の結論で、
ケスレー氏は次のように
書いているのだ。
「しかしながら、
「死の美学」の限界は、
戦争末期、ソ連による
満州・朝鮮への侵攻に
おいて露呈し始める。
終戦直前のこの侵攻時に
おいて、一部の上級
指揮官が指揮を放棄し
部隊は崩壊した。
日本兵約59万4千人
(うち将官148名)が降伏し、
戦死または自決を選んだ
のはわずか約8万4千人で
あったと推定される。
(中略)
軍の規律とう枷が外れた
その瞬間、自己犠牲の
伝統は精神的支柱として
の力を失い始めたのである」
つまり、敗戦となったら、
自決しない軍人が多数
現われた。
軍の崩壊によって
「自死の美学」
は崩壊していった
というわけなのだ。
それならば、
「死の賛美」「自の美学」
は所詮、軍という近代組織
の中だけの思想で、
日本の伝統である神道
とも、武士道とも無関係
ということになるのだ。
ケスレー氏はそれで
よしとするのだろうか。
それでは、この章の
根本的な問題を最後に
指摘しておきたいと
思うのだ。
それは基本文献を
踏まえていない
ということなのだ。
今の時点で「武士道」
を語るとすれば、
笠谷和比古
『士の思想』
(岩波書店、同時代
ライブラリー、1997年、
平成9年)と
菅野覚明
『武士道の逆襲』
(講談社現代新書、
2004年、平成16年)
とは必須文献なのだ。
そして、笠谷氏は
『葉隠』
の武士道について
次のように論じている
のだ。
「武士道とは武士の
戦闘者としての名誉の
掟である。
戦陣においては一番槍
を入れ、喧嘩の場に
あっては後ろを見せず、
自己の名誉を侵害する
ものは討ち果たし、
傍輩の窮地を見ては
これを助け、
一度約諾をなせば必ず
励行し、未練を残さずに
一命を賭けて事に
処すべき態度、これに
他ならない。
それが『葉隠』の有名
な一句、
「武士道とは死ぬ
ことと見つけたり」
という意味でもあろう。
このような心構えを
堅持することによって
はじめて、
「武道に自由を得、
一生落度なく家職を
仕課(おお)すべき也」
とする。
すなわち武士道とは
無意味に死を強要する
ものではなく、
武士としての一生を、
いかに理想的な形で
無事に生き抜くことが
できるかを、
本質的な課題と
するものである。」
要するに、武士道は
「常に死を意識していれば、
理想的に安全に生き抜く
ことができるという逆説的
な生活哲学」で、
ケスレー氏がいう
「死の賛美」
とは対極に位置するよう
なのだ。
また菅野氏は次の
ように言っているのだ。
「明治維新によって、
武士の時代は終わりを
告げた。
当事者である武士が
消滅するとともに、
武士道もまた過去の
ものとなった。
維新よりこちら側には、
もはや、武士道は存在
しないのである。」
「武士道は、自己の自立
を懸け、これと己れの
一部たる妻子、
共同体のために戦う、
私的戦闘であると
いうことに根ざした
思想である。」
「あるべき「軍人ノ精神」
とは、天皇に忠誠を尽くす
その精神のことに他ならない。
武士道に代わるところの
軍人精神は、主君でもなく、
国家でもない、
「大元帥」天皇という、
きわめて特異な人格への
忠誠としてその姿を
あらわしたのである。」
つまり、武士道と
軍人精神とは別物で
あったというのだ。
さらに繰り返すが、
この章では、軍人精神を
語る上で
欠かせない広田照幸
日本大学文理学部教授
『陸軍将校の教育社会史
ー立身出世と天皇制ー』
(世織書房、1997年、
平成9年)
がまったく参考に
されていないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

