どうも村田です

故郷を失っている
自分の基盤がない、
自分の信仰心がない、
価値判断の基準が
ない、そう小林は
言っているのだ。
ここから小林は、
だから私たちの
基準は何かという、
伝統の方に戻るのだ。
さて、昭和において
もう少し見ておくと
その後にすぐに転換点
が来るのだ。
この転換点は、最初に
昭和9年、10年なのだが、
昭和9年に面白いことが
起こるのだ。
昭和8年でマルクス主義
が終わり今まで西洋近代
を求めて文明開化、
そしてその挙国において
マルクス主義、それも
終わったのだ。
もう何が残っているか
何にもないのだ。
その時にシェストフの
『悲劇の哲学』
というのが翻訳されて
流行するのだ。
つまり、ベストセラーに
なるのだ。
当時の読書人というのは
少ないので、ベストセラー
といっても10万部は
いかないのだ。
何万部程度だが、
この時にシェストフ的不安
という言葉がはやるのだ。
このシェストフとは誰か
というと、1917年の
ロシア革命の時に貴族だった
ので
ロシアにいられなくなって
フランスに亡命した人
なのだ。
そのフランスに亡命した
人がチェーホフとかを
使いながら、
「この世は全部絶望だ」
と言っているわけなのだ。
「近代科学、進歩主義、
そんなのがあるかも
しんないけれど、
そんなものは全部嘘だ」
と言ったのがこの
『悲劇の哲学』
であり、圧倒的に
はやるのだ。
時代を表しているのだ
つまりマルクス主義、
文明開化、殖産興業、
富国強兵は全部うそだ
という感覚が、
当時の知識人に
あり、そして見つめる
べくは何か、
もう外に向かうある
目標ではない、自分の
足元を見るのだ
という形で、
「何にもなくなっちゃった
んだから足元しかない」
という、
その時にちょうど
京都学派というものが
登場するのだ。
昭和9年で初めて
京都学派という言葉が
雑誌に載るのだ。
そこから
西田幾多郎(きたろう)、
あるいは九鬼周造も
含めてだが、
まさに
「近代の超克」
論まで続くような流れが
この辺りから出るのだ。
そして決定的なものが、
おそらくここで昭和10年
なのだ。
昭和10年が分水嶺だと
思っているが、文学で
見ると1つ面白いことが
あるのだ。
保田與重郎(よじゅうろう)
という男が立ち起こした
『日本浪曼(ろうまん)派』
という雑誌が初めてここで
立ち上がるのだ。
何がすごいかというと、
今までの文学というのは
近代個人主義になろう、
近代的なリベラルになろう、
なので、つまり近代主義で
ずっと雑誌をやっていた
のだけれど、
初めて日本というものを
主題にして雑誌を立ち
起こすのだ。
日本というものを
主題にした雑誌が
昭和10年に、本当に
初めて出てくるわけ
なのだ。
逆に言うと明治から昭和10年
までずっと外を見ていたのだ。
ようやくここで外が
なくなって、外の理念は
全部ついえて、足元が
出てくるのだ。
そして重要な事件、時を
同じくして天皇機関説事件
が起こるのだ。
天皇主権説と天皇機関説、
あの矛盾なのだ。
この矛盾が昭和にきて
爆発するのだ。
つまり、今までエリート
が天皇機関説でやって
きたのに
「機関、ふざけんな。
私たちの求めているのは
そんなものじゃない。
この国は国体によって
成っていて、その国体は
心も体も、そして制度も
一致しておかなければ
いけないはずじゃないか。
それを何と、
国の方が上で、そして
憲法の方が上で、
その中に天皇を取り込んで
よしとするような、
そんなやからがいる。
そう、美濃部達吉という
天皇機関説を唱えたやつ
はけしからん」
という追求が国会で
始まるのだ。
もちろんその後ろには
蓑田胸喜という
イデオロギストがいるのだが、
彼が吹き込んで国会で
議論が持ち上がるのだ。
そうすると、もうその
議論に火がついて炎上
なのだ。
そして美濃部達吉は
「何だ、こんな不届き者」
といって何が起こるか、
「だとしたら、俺たちの
国体って何よ」
という話になるわけなのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

