どうも村田です
戦いには大義名分が
必要であるのだ。
大義名分がなければ、
日本軍の士気も上がら
なければ、現地の
被支配民からの協力も
得られないのだ。
その大義名分が
「大東亜共栄圏の建設」
であったのだ。
東南アジアを欧米列強の
植民地から解放し、日本を
盟主とした
大東亜の政治・経済圏を
打ち立てることであるのだ。
これには門松と藤原の激論
にみられる二つの選択肢が
含まれていたのだ。
日本軍が侵攻した時点で、
①「可及的速やかに被支配民
たちの独立を日本軍が容認・
援助する」のか、
それとも
②「英国やオランダに替わって
日本が支配する(占領統治を行う)
立場になる」のか。
それによって現地の住民たちが
日本に協力するのか、離れて
いくのかが変わってくるのだ。
中野出身者が中心となった
特務機関は、日本の正規軍を
陰で支え、諜報、謀略、工作、
宣伝、宣撫のほかに電話線の切断、
列車の転覆、橋梁に取り付け
られた敵の爆薬の除去など、
あらゆる「奇策」を行ったのだ。
宣撫とは、占領している地域の
人々に軍の方針を伝えて安心
させることであるのだ。
特務機関としては、山下中将
(第二五軍)のマレー作戦では
「F機関」が、
今村中将(第一六軍)の
インドネシア戦線では
「参謀本部別班」が、
飯田中将(第一五軍)の
ビルマ戦線では「南機関」が
特務機関として作戦を支援した
のだ。
特務機関員は現地住民に
溶け込んで人脈と勢力を拡大
しつつ、植民地宗主国である
米国、英国、オランダ、フランス
などから独立するための支援を
大義名分として、
日本軍への協力を取り付ける
だけでなく、独立義勇軍を育成
して、日本軍の作戦に協力・
参戦を促すことなども行われたのだ。
植民地の独立にとっては、この
独立義勇軍の育成が重要な
ポイントだったのだ。
ビルマ人、インドネシア人、そして
インド人たちが自らの軍隊を
つくるためには、
彼らの中からその中核となる
幹部要員を選んで育成する
ことが不可欠であったのだ。
この役割は、中野卒業生が大きな
担い手であったのだ。
これにより、後に、結果として、
中野卒業生が植民地独立の功労者
となるのであるのだ。
英国、オランダ、米国などの
植民地経営は、銃剣を
突きつけて脅すような
「威圧統治方式」
だったのだ。
徹底的に搾れるだけ搾り取って、
奴隷のようにこき使っていた
わけであるのだ。
もし日本軍も占領地行政に
「威圧統治方式」を採用すれば、
現地の人たちは
「英国やオランダの統治が
日本の統治に替わっただけだ」
と落胆し、日本の戦争には
協力してくれないのだ。
参謀本部と陸軍省は
「威圧統治方式」
に傾いたようだが、
南方作戦を実施した日本軍の
一部は、英国やオランダなど
とは逆の
「心服統治方式」
――植民地の独立、そして住民の
幸福を優先――を採用し成果を
上げたのだ。
特に第一六軍司令官の
今村中将は、ジャワの独立
と住民の幸福を優先することに
腐心・尽力し現地人の信頼を
勝ち得、
占領統治はうまく機能したのだ。
しかし、参謀本部からは
「生ぬるい」との苦言が
呈されたようなのだ。
今村と対照的な占領統治を
したのはビルマの英軍を
攻略した第一五軍司令官の
飯田中将であったのだ。
飯田は、口では
「独立させてやるぞ」
と言いながら、
それをやるだけの度量が
なかったのだ。
飯田は、実際には英国を
同じように軍政を敷いたため、
インパール作戦後は自分たちが
育成した独立義勇軍に見切りを
付けられて、
逆に日本軍に敵対する展開
となったのだ
今村と飯田の占領地行政に
見られる統治方法の違いは、
現地住民に「誠」をもって
接する中野卒業生にとっては
重大な問題だったのだ。
戦後の結果から見れば、
日本が採るべき占領地行政
は今村の「心服統治方式」
であったことは明白なのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる