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拘らんのじゃ

どうも村田です

度会神道

(わたらいしんとう

伊勢神道)

というのは、

神道の最も根源的な

部分に戻ろうという

ことで、

「保守するための改革

(Reform toConserve)」

をやろうとした

のではないかと

思うのだ。

初めて伊勢神宮に

行ったのがかれこれ

四十年くらい前だが、

外宮を訪れた際に、

神明造(しんめいづくり)

の正殿よりも、横にある

空き地に感動したのだ。

だだっ広い空き地があり

あれは古殿地というのだが、

式年遷宮が始まると

新御敷地(しんみしきち)

となるのだ。

あの何もない空間、

虚無の空間というが

大変気に入ったのだ。

伊勢神道というのは、

そうした不可視で

超越的なものを体系化

しようとしたのだ。

それがすごく印象に

残っているのだ。

日本宗教史が専門の

佐藤弘夫氏の

『神国日本』

という本が大変参考に

なるのだ。

成程と思ったのは、

中世日本の神国思想

というのは、

見えざるもの、つまり

浄土というものに

一つの価値を置いている

ということなのだ。

現世と浄土の区別が

ありそれが中世後期

から室町時代以降に

かけて、

浄土の世界がどんどん

縮小されていくのだ。

一方で現世利益の方に

宗教的なコスモロジーが

変動していくと指摘して

いるのだ。

地上のあらゆる存在

を超越する絶対者と、

それが体現していた

普遍的権威の消滅

というのが起こってくる。

中世において現世の

権力や価値観を相対化し、

批判する根拠となって

いた

他界の仏や儒教的な天

といった観念は、近世

では現世に内在化し、

逆にこの世の権力と

体制を内側から支える

働きをすることになる

のだ。

世俗における道徳とは

何かという話で

中世から室町時代、

そして近世にかけて

仏教・儒教・神道が

浄土世界の縮小と

消滅によって現世へと

一本化されるのだ。

江戸時代に入って、

一向一揆やキリシタン

などが弾圧され、

現世の支配者(天下人)

にすべて吸収されて

しまうのだ。

その延長で、

明治時代以降に天皇が

現人神になり

『神皇正統記』

にはまだ中世的な

浄土世界や彼岸信仰と

いうものが残っているので、

再びそこに眼差しを

向け直しても良いのでは

ないかと思うのだ。

北畠親房が考えた

本来の日本国の在り方

というのは二重構造に

なっていて、

「世俗国家」と

「神の国」と

表現することができる

のだ。

オカルトチックな説明に

なるかもしれないが、

宗教的で精神的な国家

(浄土世界的な国家)

があって、

これが俗世と合わさって

初めて秩序が出来上がる

という仕組みになって

いるのだ。

ところがこの二重構造が、

近代日本の政治思想から

消失してしまうのだ。

さらにもう一つ付け

加えるとすると、

鏡というものを

御神体と捉えるの

はとても面白いと思う

のだ。

日本文化はオリジナル

(Original)

にまったく拘らない

のだ。

鏡も何回も焼けたり、

海に沈んだり、

しまいには後醍醐天皇が

勝手に「コピー」を

つくったりしているのだ。

形代(かたしろ) で

伊勢神宮の式年遷宮が

まさにそうなのだ。

社殿をひたすら

二十年置きに壊しては

新しくし、

また壊しては新調する

という行為を繰り返し

やっているだけで、

「オリジナルは

どうでも良い。形が

残っていればそれで良い」

ということなのだ。

オリジナルではなく

コピーであっても、

そこに神様が宿って

いるということで

これは、日本文化の

大きな特徴だと

思うのだ。

なぜなら西洋は

オリジナルに異常に

拘るからなのだ。

オリジナルでかつ

唯一無二でなければ

いけないのだ。

ホッブズの有名な言葉に

「主権は絶対に分割できない」

というのがあるのだ。

分割不可能な

オリジナルに拘りを

見せるとはこのこと

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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