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赴任したんじゃ

どうも村田です

ドイツが最後まで

優勢でありながら、

戦争終結のチャンス

を逃してしまったのだ

実際問題として、

連合国も大戦の後半

には長期に亘る戦争に

ほとほと嫌気が差して

きており、もしも

ドイツが外交交渉を

柔軟に駆使していれば、

戦争の終結に向けて

いくらでも講和交渉に

応じていたはずなのだ。

それをドイツは最後の

決戦戦争にこだわって、

無制限潜水艦作戦まで

始めて、

最後の仲介役の望みを

残していたアメリカ

まで敵に回してしまった

のだ。

その結果、行き着く

ところまで行ってしまい、

ついにベルサイユ条約の

恐るべき破局を迎えた

のだ

第一次世界大戦に

おけるドイツ軍部の

戦争指導の誤りを

鋭く指摘した

デルブリュックの理論

と彼らの論争は、

石原莞爾(かんじ)

の心に深い感銘を

与えたのだ。

のちに彼が確立した

最終戦争の理論は

デルブリュックの

思想的な影響を

かなり受けているのだ。

石原莞爾(かんじ)は

のちに満州事変以後、

万里の長城よりも

南の中国大陸で戦火を

拡大することには断固

として反対したのだ。

デルブリュックの

影響のもとに彼が

確立した戦争理論から

すれば、

それが日本を破滅に

導くであろうことは

明らかだったのだ。

そして石原の予言した

通り、ドイツが

第一次世界大戦で

犯したのと同じ失敗を

日本は大東亜戦争で

繰り返して、破滅に

追いやられることに

なったのだ。

次に満州事変と

満州国建国のテーマ

に入るのだ。

石原莞爾(かんじ)と

いえば、誰でも即座に

この2つのテーマを連想

するかと思うのだ。

石原莞爾(かんじ)は

1928年、旅順の

関東軍司令部に参謀

として赴任したのだ。

張作霖が爆殺された

直後だったのだ。

彼の目に触れた満州の

情勢は恐るべきもの

だったのだ。

反日の嵐は吹き荒れ、

張学良は蒋介石になびき、

条約侵犯と不法行為を

繰り返していたのだ。

これに対する

幣原喜重郎の平和外交

はのれんに腕押しで

何の解決ももたらさず、

現地の治安は悪化の

一途をたどり、満州に

おける日本の権益は

風前のともしびと

なっていたのだ。

このまま幣原の外交

交渉に任せていたら、

満蒙問題は取り返しの

つかない泥沼に陥って

しまうのだ。

この現状を打開する

ためにはどうすれば

よいのか。

日本にとって満蒙の

存在意義とは、ソ連と

中国に対する緩衝地帯

なのだ。

張作霖は従来、

日本軍とのつながりが

深く、その利害もある

程度は共通していたのだ。

そして彼は満州で

保境安民のスローガン

を掲げていれば、

日本と歩調を合わせる

こともできたのだが、

その張作霖が死んだ後、

息子の張学良は

青天白日旗を掲げ、

蒋介石になびいて

排日行為を繰り返して

いるのだ。

こうなった以上は

もはや満州は緩衝地帯

ではあり得えないのだ。

かと言って、満州を

日本の特殊権益地帯と

見なして、

日本による治安維持を

強行しようとすると、

武力解決に発展して

しまう恐れがあるのだ。

日本は一体どうすれば

いいのか。

そもそも満州の利は

誰のものなのか。

明を滅ぼして清朝帝国

を造ったのは満州に

いた女真族なのだ。

彼らは征服王朝として

万里の長城を越えて

北京に入り漢民族を

支配したが、

故郷の満州はいざと

いうときに帰れるように、

封禁の地として数百年間、

人口の希薄なまま

凍結されていたのだ。

清朝の末期になってから、

ほんの少しばかり

漢民族が流れ込んで

くるようになったが、

まだまだ未開の辺土

なのだ。

満州への大量流入が

始まったのは辛亥革命

以降で、

中国本土の内乱を

避けた流民たちが

万里の長城を越えて

続々と流れ込んできた

のだ。

孫文が東京で

中国革命同盟会を

組織した時、

彼の頭の中では、

満州は中華民国の

一部とは認識されては

おらず、

革命資金を得るため

に日本政府に満州を

買い取ってくれるよう

打診しているくらい

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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