どうも村田です
日清戦争での成功体験を
踏まえ、天風は日露戦争
にも軍事密偵として参加
することになったのだ。
参謀本部は三〇〇〇名の
応募者の中から二〇〇名を
選抜して訓練を実施したが、
最終的に残ったのは
一一三名しかいなかったのだ。
勿論、天風はこの中に含まれ、
満州に送り込まれたのだ。
一九〇二年末、中村天風は
呼称番号一〇三号・藤村義雄
という偽名で満州に潜入したのだ。
直ちに、日露開戦前のロシア軍
情報の収集と後方攪乱のための
謀略工作を開始したのだ。
天風は、満州生まれ・育ちの
橋爪亘と近藤信隆とチームを
組んだのだ。
二人は、満州人そっくりで
中国語も堪能だったのだ。
翌一九〇三年は、しばらく北京と
天津での任務をこなした後、再び
満州に潜入したのだ。
一九〇四年二月八日、
日露戦争が勃発。
天風はロシアの後方基地であった
ハルビンで鉄道などの破壊や
シベリア第二兵団軍司令部襲撃など
目覚ましい活躍をしたのだ。
このような生死を賭ける戦場で、
天風は馬賊の頭目のハルビンお春
という女性と出会ったのだ。
お春は騙されて満州国に連れて来られ、
馬賊の頭目と結婚していたが、
紆余曲折を経 て自らが頭目となっていた
のだ。
お春に遭遇したのは、天風が
大豆商人に変装してロシア軍の
動向を偵察中のことだったのだ。
天風は、お春の拠点で二、三日間
を過ごし、お春との信頼関係・
連帯感を深めたのだ。
お春を通じ情報も手に入れる
ことができ、襲撃や爆破などの
工作も手伝ってもらえたのだ。
天風が馬賊の拠点を去るときに、
ハルビンお春から
「かわいい娘をお前の遊び相手に
やるよ」と言われ、
玉齢という名の一六歳の満人少女
を預かったのだ。
玉齢は馬賊から拉致されてきた
のだが、天風は玉齢を不憫に思い、
少女の家の近くまで送り届けたのだ。
不思議なめぐりあわせだが、後に
天風は、この少女に命を救われる
ことになるのだ。
玉齢を実家に送り届けてから
一カ月ほど経った一九〇四年
三月二七日のこと、
天風はコサック兵 に捕えられ、
死刑宣告を受けたのだ。
天風は、翌朝には刑場に連れて
いかれ、杭に縛り付けら れて
立たされたのだ。
「何か言い残すことはないか」
と問われたが、「ない」
と答えたのだ。
それがスパイの運命と覚悟
していたのだ。
コサック兵の指揮官は
「ロシア帝国皇帝ニコライ二世
の名において銃殺刑に処する」
と宣言し
「撃ち方用意」という号令を
かけたのだ。
射手達が一斉に銃を構えると、
さすがの天風も観念して瞑目
したというのだ。
その瞬間、奇跡が起こったのだ。
同僚の橋爪とあの小娘の玉齢が、
ハルビンお春が率いる馬賊とともに
駆け付け、
コサック兵目がけて手榴弾を
投げつけたのだ。
手榴弾はコサック兵らをなぎ倒し、
天風も縛り付けられていた杭
もろとも吹き飛ばされたのだ。
天風は頭に傷を負ったが、幸運
にも九死に一生を得たのであったのだ。
残念なことに、玉齢はコサックの
銃弾で死亡したのだ。
天風は以後この日を、己の
「第二の 誕生日」と称すると
ともに、命の恩人である玉齢を
偲ぶ日にしたというのだ。
天風のように、人を大事にする
ことは、巡り巡って自己の命の
保全にもつながるのだ。
「人」は諜報員にとって不可欠の
「情報源」であり
「支援拠点(偽装・安全確保・
隠れ家・資金援助・精神的な
サポートなど)」となるのだ。
イスラエルのモサドなどの
諜報機関員 はディアスポラ
(「離散」を意味するギリシヤ語で、
紀元前五九七年の新バビロニヤ
帝国のバビロン捕囚を起源・契機
として、ユダヤ人が広く世界に
離散したこと)により
世界に 広く定住するユダヤ人に
よって諜報活動を支援してもらえる
のだ。
ユダヤ教という鞏固な繋がりで
裏切られる心配もないのだ。
日本の軍事密偵が満州において
ロシア・ソ連に対する諜報活動
する際も日本人同胞の助けが
不可欠だったのだ。
満州にいち早く乗り込んで定住
したのは、ほかでもない女郎
たちだったのだ。
ハルビンお春のように大陸に
女郎として売り飛ばされた女性が
天風や石光真清の諜報活動を
支えてくれたのだ。
これらの女性は、身は女郎に
やつれても日本人としての矜持を
失うことなく、
異民族の中で健気に生き、天風や
石光のように国事に身を挺する
同胞に対して誠心誠意支援を
惜しまなかったのだ。
これら女性の中には馬賊の頭目の
婦人・愛人なども多く、諜報活動
にとってはこの上もない「援軍」
となったのだ。
天風の例に見られる如く、
人と人との信頼関係は、
大東亜戦争において活躍した
中野出身の諜報員たちにとっても
同じように重要であったのだ。
「情報」とは人と人との情けを
介する活動なのだ。
続きは次回だ
今日はkのくらいにしといたる