どうも村田です
明治4年の廃藩置県を
迎えて、大名として
後に爵位をもらうのだが、
その時はまだ大名には
なっていなかったのだ。
その志筑藩の
鈴木専右衛門の息子
である大蔵(だいぞう)
が、
神道無念流の剣術を学び
それから水戸も学び、
そして江戸の、
東京の深川佐賀町にある
伊東誠一郎の道場に入門
して、そこの娘と結婚して
師範代になって、
伊東家を継いで、
伊東甲子太郎という
名前を名乗っていたのだ。
この伊東甲子太郎には
たくさん弟子がいて、
藤堂平助もかつてこの
伊東甲子太郎から剣術を
学んだうちの1人なのだ。
伊東甲子太郎自身は
水戸へ出て水戸学も
勉強し、
そして剣術も
神道無念流を修めている
から強かったのだが、
それだけではなく、
やはり尊王攘夷(じょうい)
の気持ちを非常に強く
持っていたのだ。
水戸学というのは
もともと尊王だが、
新撰組そのものは幕府と、
それから京都の朝廷が
一体となって、すなわち
公武一体となって、
そして攘夷(じょうい)
を行うのだという思想に
なっているから、
伊東甲子太郎もそんなに
違和感はないはずなのだ。
しかも伊東甲子太郎は、
自分自身は大変な秀才
であり、かつ剣術の名人
だと思っているから、
現にそうだったと思うけれど、
このような動乱の時代に
深川辺りのいち道場主で
終わるのはもったいないと
自分自身でも思ったかも
しれないのだ。
だから、この際新撰組に
乗っかって京都に行って
一旗揚げよう、
あるいは何らかの自分の
役割が京都にあるのでは
ないかというふうに思った
かもしれないのだ。
で、伊東甲子太郎は
自分の弟子を、門弟を
引き連れて、
そして新撰組に合流する
ことになるのだ。
この伊東甲子太郎がまた
大きく新撰組と同時に
近藤勇(いさみ)の運命を
変えていくことにもなる
のだ。
幕府が禁門の変の後に
第一次長州征伐をやるのだが、
第一次長州征伐は実際の
実践をすることがなく、
長州から出た3人の家老、
福原越後、国司信濃、
益田右衛門介、この3人が
切腹をして、
そして謝罪をして、
幕府の許しを請うことで、
戦にはならずに済むわけ
なのだ。
その代わり謹慎をしろ
ということで、
毛利慶親(敬親)と
その息子の藩主親子は
謹慎処分にさせられる
わけなのだ。
そして今度は第二次
長州征伐なのだ。
それにもかかわらず、
長州は長州藩の中でもって
内攻があったのだ。
内輪もめあるいは
内戦のことだが、
内攻があり、
高杉晋作が政権を執って、
それまでの保守派から
完全に倒幕派が主導権を
握って、
倒幕運動を公に始める
ようになるのだ。
この際に幕府は
第二次長州征伐をやろう
とするのだが、
部隊がなかなか集まらないし、
集まっても部隊が動かない、
そして動いてもやる気が
ないのだ。
実は新撰組の
近藤勇(いさみ)も
広島まで出かけていく
のだが、
結局何もできないまま、
実は第二長州征伐は
始まり、
そして第二長州征伐では
長州藩が逆に勝ってしまう
わけなのだ。
芸州口、石州口、
それから小倉口、大島口
という4つの戦いがあるのだが、
いずれも幕府方は大敗を
喫して、第二次長州征伐で
大変な敗北をしたのだ。
これは幕府にとっても
大変なショックであると
同時に、
新選組にとっても大変な
ショックだったわけなのだ。
自分たちが仕えている
幕府が負けたわけだから、
自分たちはこれからどう
なるのだ、
あるいは自分たちの
やっていることが本当に
正しいのか
というような疑問が
随分出てくると思うのだ。
こういう中で
伊東甲子太郎の一派が
反乱というか、
新撰組のやり方、
あるいは近藤勇(いさみ)
のやり方に異を唱えて
いくのだ。
伊東甲子太郎としては
「自分たちは
尊王攘夷(じょうい)
なのだ。
それは近藤勇(いさみ)
も同じのはずだ。
そして公武一体である、
幕府と朝廷が一緒になって
攘夷(じょうい)を
するのだと言うけれど、
幕府は
全然攘夷(じょうい)
をする感じがないでは
ないか。
しかも新撰組は
攘夷(じょうい)派の
侍を、浪士を斬っている
ばかりではないか。
しかも攘夷(じょうい)
の先方に立って四国艦隊と
戦った長州をいじめている
ではないか。
こんなことでいいのか」
というふうに、実際に
口に出したわけではない
のだが、そう思ったと
思うのだ
そして、
「われわれは分離したい。
脱退は認められていないので、
脱退を認められていないから
分離したい」
ということを言い出すのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる