どうも村田です

樋口に先見性が
あったということが
うかがえるのは、
もう1つの樋口の業績
として、キスカ島で、
無傷の撤退作戦を成功
させたのだ。
キスカで部隊を
撤退させた時に、
アメリカ軍から
「パーフェクトゲーム」
というふうに言われた、
この作戦を成功させた
生き残り部隊を、
実は、樺太と千島列島に
配置しているのだ。
部隊の第88師団長だった
峯木十一郎中将を樺太に、
そして占守島には、
峯木中将の参謀として、
キスカの撤退に成功した
柳岡武大佐を配置して、
それだけではなく、
満州の精鋭部隊もここに
配置して、最北の守りを
固めていったのだ。
これはロシアが必ず来る
からということで予見
していたということなのだ。
もう1つ、樋口隆一さんと
私が重ねた推論なのだが、
小野寺のヤルタ密約情報
というのは、国策に生か
されずに、
中枢でソ連の影響工作を
受けた中枢の一握りの
エリートに握りつぶされて
しまったわけなのだが、
樋口の手記、
樋口季一郎の遺訓の中に、
このような表記があり、
「ソ連参戦数ヶ月前に
参謀本部ロシア班から
ソ連参戦情報を伝えに来た」
というふうに書いてあるのだ。
もう1つ、樋口家に
言い伝えがあり、
実は、終戦の1か月前、
7月ごろ、阿南陸相が実は
札幌に来て、1日密談を
しているのだ。
これはお孫さんの
隆一さんが親御さんから
聞かされてずっと
言い伝えられたことなのだが
わざわざ陸軍大臣が
札幌まで7月に来て、
1日話すということは、
これは
「ソ連が必ず来る。
必ず来るから何とか
守ってくれ」
というようなことを
密談したのだろうと
言われているのだ。
この2月についても、
隆一さんいわく、
ヤルタ会談直後の
2月中旬ごろだった
のではないかな
というのは、
ストックホルムの
小野寺から送った電報
というのは、
参謀本部に伝えた宛先
は秦彦三郎参謀次長宛て
だったのだ。
この秦彦三郎さんとは
陸士時代に通った今の
東京外語大学のロシア科で
一緒に勉強した、そこに
通った仲なのだ。
そして、ポーランドの
武官時代に、最初の
日本人として
ソ連の南部を視察に
行った時の、これも
秦彦三郎さんがソ連
駐在武官だったから
一緒に行っているのだ。
樋口隆一さんからすると
腹心の仲間だから、
これはやはり秦さんが
おそらく当時一番参謀
本部内でロシア通で
あった、
前ロシア課長の林三郎、
ロシア課から編制動員
課長に代わっている
林三郎動員課長に命じて、
樋口を札幌まで送り
届けたのではないか
ということが類推されるのだ。
そういうことから
小野寺情報は、中枢に
握りつぶされて、
ソ連の対日参戦を防ぐ
ことはできなかったのだが、
そして政策には
生かされなかったのだが、
樋口季一郎中将の決断、
判断に
この小野寺情報が
生かされた可能性が
あるのだ。
つまり北の守りに
小野寺情報が生かされて、
これが日本の分断の防止
につながったとすれば、
悔しかった小野寺も
幾ばくかは浮かばれる
のではないかなと考え
るのだ。
『消えたヤルタ密約緊急電』
という本を書くにあたって、
小野寺家からさまざまな
小野寺信(まこと)の
資料をご提供いただいた
のだが、
これはたまたまだが、
昭和13年、1938年10月の
参謀本部の分所表なのだ
どこに誰がいて、
どういう役割だったのか
ということを表にした
ものなのだが、
たまたまいただいたものが、
これは実は小野寺さんの
筆跡なのだが、
第5課ロシア課に
小野寺さんは所属したのだ。
おそらく10月のころとは、
上海にロシア課から派遣
されているのだが、
このロシア課の上司に
当たる第2部長が、
これがまさしく
樋口季一郎さんなのだ。
この分所表を残して
資料として大事に
持っておられた
ということは、この時代
の樋口季一郎さんが
自分の上司であったと、
この人に仕えた
ということを誇りに
思って
記念として残された
のではないのかなと
感じるのだ。
有名なヤルタ会談に
おける3巨頭の写真で
チャーチル、
ルーズベルト、
スターリンなのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

