どうも村田です
抵抗運動は、ロシア軍の
満州への動員阻止の効果を
もたらした。
「血の日曜日事件」以 降、
ロシアでは抗議ストライキや
デモが続き、東部・中央・
西部ロシア、ポーランド、
コ ーカサス地方では、
抵抗勢力によって、満州に動員
されるはずだった軍部隊が
行く手を阻 まれたのだ。
例えば、コーカサスの
ゲオルギー地力では、動員妨害を
鎮圧するために派遣された
歩兵中隊が包囲されたため、
コーカサス第一軍の動員は
不可能となったほかポーランド
でも常設の軍団が戦場の満州に
赴くことができなくなったのだ。
フィンランドではロシア政府
地方官の暗殺が続いたのだ。
第一回目の会議以降、ロシア、
ポーランド、フィンランドなどで
盛り上がった不平党による反ロシア
政府騒乱により、
ロシア軍の満州への増援を阻んだ
ことで、旅順攻囲戦
((一 九〇四年八月一九日~〇五年一月一日)、
黒溝台会戦(一九〇五年一月)、
奉天会戦(一九〇五年三月)に
大きく貢献した事は明らかなのだ。
第二回目の会議は、一九〇五年四月に
スイスのジュネーブで行われたのだ。
会議にはロシア 革命社会党、
ポーランド社会党、ドロシャク党、
サカルトヴエロ党、白露党、
レットン党 (テロ活動を得意とする)
のほか、
ロシア民権社会党、ブンド党
(ユダヤ人労働者の秘密 結社)
が新たに参加したのだ。
会議では
「あくまでも抵抗運動を継続し、
夏季をもって武装蜂起を起こすこと」
を議決したのだ。
この決議により、明石は、武器の
調達を迫られることになったのだ。
第二回会議から約一か月後に
行われた日本海海戦
(五月二七・二八日)では、
連合艦隊 がバルチック艦隊を
撃滅したのだ。
この時点で、明石の胸中には
「連合艦隊がバルチック艦隊を
撃滅したとはいえ、満州軍は
奉天会戦で攻勢の限界に達しており、
これ以上戦う力はない。
ロシア皇帝のニコライ二世に
戦いを断念させ、終戦交渉を
有利に運ぶためには欧州ロ シアで
更なる工作を行い、
暴動・内乱・騒擾などを武装蜂起の
レベルまでを激化させ圧力
を継続・強化する必要がある」
との思いが強かったに違いないのだ。
明石は、第二回会議で
「夏季(七月から八月)に
武装蜂起を起こすこと」
を議決したことを踏まえ、
小銃と弾薬の買い付けに
奔走したのだ。
明石はスイスで武器弾薬
(バルト海方面 用に小銃一万
六〇〇〇丁、弾丸約三百万発、
黒海方面用に小銃八千五百丁、
弾丸百二〇万 発)の購入契約に
成功したのだ。
貨車八両分ものこれら小銃・
弾薬を列車でスイスから
オランダのロッテルダムに送り
そこから輸送船に積み替えて
バルト海や黒海経由で不平党各派に
届ける作業は紆余曲折があり難渋を
極めたのだ。
小銃・弾薬を不平党各派・勢力への
引き渡し作業は、バルト海方面で
一部達成できたが、黒海方面も含め
全てを引き渡したのは日露講和条約締結
(九月五日)の後で、
明石が欧州から日本に帰国した
後の事だったのだ。
しかし、 ロシア政府側にしてみれば、
明石が不平党各派に武器弾薬を配送する
動きがあることを察知し、衝撃を
受けたことだろう。
このことで、ツァーの心理に
大きな圧力が加わったことは
間違いないだろう。
五月の日本海海戦でバルチック艦隊が
撃破された直後にも、ニコライ二世へ
心理的な打 撃を与える事件が引き起こ
されたのだ。
六月二七日、ロシア海軍の黒海艦隊の
戦艦ポチョムキ ンの乗組員が反乱を
起こして艦を乗っ取るという事件が
起こったのだ。
クリミア半島西部の海上で蜂起した
水兵は、艦長以下の士官を殺害し、
艦を占領して人民委員会の管理下に
置いたのだ。
その日の深夜、黒海北西岸の最大の
商業港オデッサに入港後に、
ツァーリに宣戦する事態になったのだ。
事件の発端は、食事のボルシチに
入れる肉が腐ってウジ虫がわいている
ことに怒った水兵たちが戦艦
ポチョムキンを占拠したことに始まるが、
注目すべきは、皇帝に絶対の忠誠を
誓うはずの海軍兵士にまで不平党の
強い影響が及んでいたことなのだ。
明石の工作が、 不平党を通じて、
直接・間接にこの事件にまで
繋がったと見ることができるのでは
ないだろうか。
ニコライ二世はポチョムキンの
叛乱を危険なものであるとみなし、
黒海艦隊司令官のチュフニーン
海軍中将に対して
「速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の
場合には叛乱艦を全乗組員 ごと
撃沈すべし」とする指令を与えたのだ。
ポチョムキン号は一週間にわたり
黒海上をさまよ った挙句、
ルーマニアのコンスタンツェ港に
入って武装解除され、水兵の
大部分は逃亡したのだ。
水兵による反乱は失敗したものの、
これによりロシア政府の権威は失墜し、
皇帝に忠実 なはずの軍隊にまで
革命の一揆が起こるという現実を
見せつけたのだ。
ニコライ二世は「足元」 の
ロシア西部で内乱・内戦が勃発・
拡大する可能性を恐れる事態に
直面することとなったのだ。
内乱・内戦が勃発・拡大すれば、
ニコライ二世は、満州における
日本・満州軍との戦いのみならず
ロシア国内の反政府勢力との
「二正面作戦」を余儀なくされるのだ。
明石一人による工作はこのような
展開を見せ、ニコライ二世の
戦争継続の意思を打ち砕く成果を
挙げたのだ。
ポチョムキンの叛乱直前の
六月一二日、ついにニコライ二世は
ルーズベルト米大統領の講和交渉提案
を受諾する羽目になったのだ。
その後、アメリカのポーツマスで
行われた講和会議は
一九〇五年八月一日より開始され、
九月五日に日露講和条約の調印が
なされたのだ。
明石が日本海海戦勝利後も手を
緩めずに工作を継続した成果が
日露の講和会議に有利に働いた
ことは言うまでもないのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる