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楽しくできたんじゃ

どうも村田です

2つ目は、

幹部を17年間やって、

45歳で自衛隊を退職して

第2の人生を歩んだことなのだ

三島先生は45歳で人生を

切り上げて、天上界の仕事に

赴いたわけだが、

やはり私も先生の影響を

受けているので、

「何か世のためになりたい」

という思いがずっとあったのだ。

それで、

「よし、部隊長も3回やらせて

もらって、もう満腹。思い残す

ことはない」ということで、

45歳で思い切って自衛隊を退職

して第2の人生を歩んだのだ。

「三島先生と同じように、国や

社会や人々のために何かできないか」

ということで、食料安全保障の

民間的能力の向上にまい進して、

すでに20年が経ったのだ

自衛隊を辞めて30年だが、

食料安全保障、要するに当時は

「2025年を境にして食糧が不足する」

と言われていて、多くの学者さん

たちが「地球の食料が完全に不足する」

ということがいろいろな雑誌で

叫ばれていたのだ。

私はそこに目を付けて、

食料安全保障ということを

徹底してやっておったのだ。

今でこそ

「食料安全保障」や「経済安全保障」

などという言葉が出てきているけれど、

当時はどこにもなかったのだ。

「自分の人生がとても充実して

いるのは、三島先生との出会いが

あったればこそ」

と、三島先生に対する感謝を忘れた

ことは1日もないのだ。

『たきがはら』

の創刊号を見てみるのだ。

おそらく、これは今回初公開

だと思うのだ。

赤で囲んだ所に三島由紀夫という

自筆サインが書かれているのだ。

当時の連隊長との写真なども

いろいろあるのだ。

滝ヶ原自衛隊での思い出、それから

気付いたことをいろいろとまとめて

書かれているのだ。

それで私は分かったのだが、

三島先生はあの最後の名場面で、

これほど愛した自衛隊、

これほど虐げられた自衛隊、要するに

「すべてを知り尽くした

自分が何をなすべきか」

ということをよく考えて、

事に臨んだのだというふうに

私は思うのだ。

自衛隊での楯の会の教育訓練

というのは、カリキュラム通り

だが例えば射撃、

それから斥候訓練とか戦闘訓練

というものは、自衛隊の教官・

助教官が付きっきりで指導する

わけで、

そこを三島先生がご視察に

行かれるだけという流れに

なっていたのだ。

ところが、重要な訓練については

三島先生が自らシナリオを作って、

そして楯の会の隊員たちにその

訓練を実践させて、

自分もその訓練に参加する

ということで、三島先生が

自分で作ったシナリオには

自分も主役として出るというのが

三島先生流なのだ。

まず最初に、ある日急に

「明日ちょっと面白い

訓練やるのだけど」と、

2人しかいないのに私に

言ったのだ。

それで

「どういう訓練ですか?」

と言ったら、

「拉致訓練をやるのだ」

ということを言われて、

それで

「もうちょっと細部を教えて

もらえませんか?」と言ったら、

「実は敵国ソ連の移動中

の将校を拉致するのだ」

という話だったのだ。

私は

「ああ、そうですか。じゃあ、

その敵国の将軍の服装なんかは

準備されているのですか?」

と言ったら、

「ないからさ、何か楯の会の

服装でもさせようかなと

思っているよ」と言ったから、

私も「あ、そうですか」

と言ったままで、すぐに私は

準備にかかったのだ。

「せっかくだから学生も

驚くし先生も小躍りして

喜ぶようなものを作ろう」

と思って夜通し敵の将軍の服装を、

「先生は大体派手にすれば喜ぶ

からもうとにかく何とか派手にしよう」

と思って中隊のクリスマスの

セットとかいろいろなものを

引っ張り出してきたのだ。

それでベタベタと自衛隊の

制服に米軍の精勤章とかを

たくさん付けて、

ないものはクリスマスの

ボールを付けたりしてもう

とにかく派手に作ったのだ。

ちょうど明け方までに

2人分の制服ができたので、

先生が食事から帰ってきたから、

「先生、実は余計なこと

かもしれませんけどこれ

作ってみました」と言ったら、

もう大喜びなのだ。

それでもう

「早速着てみる」と言って、

その時の写真がこれなのだ。

これは私が運転している

ジープなのだが、将軍らしく

見えるかなと思って

座席を下ろして先生にこの

雪上に座ってもらって記念撮影

をしていたのだが、

実はこんなに笑った写真

というのは、すがすがしい

写真というのはなかなかない

と皆さん言うのだが、

何で笑ったかということ

なのだ。

それで私は、

「先生、将軍だから名前が

ないと困りますね。分かった。

付けましょう」と言って、

私は

「三島先生はミシマンスキー」

と言ったのだ。

そうしたら周りも先生も爆笑で、

続いて助教の山内君というのが

隣に来られたのだが、

彼は山内だから

「山内くん、あんたは

ヤマンスキーだ」と言ったら、

また笑ったのだ。

そんなことがあって、本当に

スタートは非常に楽しく

できたのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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